雪片

「こら、フレーク!また落ちるぞ、お前!」
 カーテンレールの上に陣取ってご満悦の一匹の子猫。当の本人は尻尾をひらひらさせながら普段は自分よりも大きい3人を見下ろして目を輝かせているのだが、その小さな姿を見上げて声を掛けているのがサンジだった。腰に回したエプロンを握っている左手がサンジの感情を表現しきっているようで、アキは微笑みながらその姿と子猫に交互に視線を向けていた。
 一応その子猫・・・フレークとサンジが名前をつけた・・・の飼い主であるゾロは目の前の二人と一匹を眺めながらソファーに体を伸ばしていた。昼下がりのサンジの部屋は窓辺からふんだんに陽光が差し込んでなんとも居心地のよい空間になっている。今日は朝から空気が一味も二味も違う感じに冷え込んでいたので余計に昼寝がしたくなる。ゾロはひとつあくびをして自分の腕を枕に目を閉じた。
「あ・・・」
 アキが小さく呟く声を聞いてゾロは薄く目を開けた。すぅっと立ち上がったアキはバルコニーに続く大きなガラス窓の前に立って空を見上げている。
「雪?」
 半分空気に透けるようにまばらに落ちてくる雪片。見るとなぜか一瞬周囲の音がなくなったように感じてしまう白い舞い。
 ゾロがゆっくりと身を起こしている間にサンジはすでにアキの隣りに立っていた。
「うわ、初雪だな。すげェ」
「うん」
 もしも何が『すげェ』のかをサンジに問えばきっと答えに詰まるのだろうが。
 瞳を大きく見開いて真剣に空を見つめるサンジとアキの表情はどこかとても似ていた。顔だけは小さく苦笑したゾロもやがて二人から目を離して窓に目を向けた。
「朝からなんだか冷えてたはずだよな~。夜はフォンデュにでもするか」
 サンジがちらりとキッチンに視線を向けたとき、小さな影が宙を横切った。
「いてて!フレーク!爪をたてるな、爪を~~~~~!」
 恐らく三人がどこを見ているのか自分も確かめようとしたフレークが場所を移動した先はサンジの肩の上だった。
「ぐわ~~~!だから落ち着け、もうちゃんと乗っかっただろ、こら!」
 叫びながらも懸命に痛みに耐えているサンジに掛ける言葉が出ずにアキはただ見守っていた。服の上からはわからないが三人の首や肩には同じような傷が複数ある・・・そしてきっとゾロの体の傷は部位も数も二人に比べ物にならないほど多い。その原因であるフレークはいつの間にか完全に肩のり猫になっていた。
 フレークとサンジのパニックがどうやらおさまると子猫は小さく喉を鳴らした。それを聞いたサンジは口元を緩めて猫の頭に頬を寄せた。
「お前、まだ小せェな~。どんどん食って大きくなって、こう、体が寄っかかれるぐらいになってくれよな。あれはあったかいから・・・」
 その時サンジの瞳に浮かんだのは追憶の光だろうか。
「・・・それじゃ化け猫だろ、でかすぎて」
 切り返したゾロに目を向けたサンジは小さく笑った。
「そっか。化け猫っつぅか虎とか豹になっちまうよな」
 サンジのそんな柔らかな笑みを初めて見たような気がして。
 そっと息を詰めたアキの顔は話の続きを待つ子供のようになっていて。
 視線を落としたサンジは子猫をつまみあげてポンッとゾロに放り投げるとポケットから煙草を取り出した。

 俺さ、ちょっと訳ありでガキの頃からクソジジイのレストランで暮らしてきたんだ。前に言ったよね、クソジジイと体がごつくて口が最高に悪い連中の中でこうやって爽やかに育つにはさ、なかなか苦労もあったんだぜ。あいつら、自分たちは無茶苦茶やってきたくせに妙に過保護な野郎ばかりだし。
 ・・・そこ、何か文句あるか?
 だからさ、俺、初めて学校行ってさ・・・ちょっと戸惑っちまったな。大人は先生たちだから、ほら、子供の第一印象は話し方とかそういうやつで決まるだろ?クラスメートってのはみんな同じ年のガキなわけで、俺、そんな中でどうしていいのかまるで知らなかったしよ。まあ、見た目は黙ってれば誤解してくれちゃうほど可愛かったから・・・だから学校へ行った最初の日に覚えたよ。俺はとにかくできるだけ黙ってるほうがいい。できるのはそれくらいだって。
 でも、そうするとさ、やっぱりガキでも結構ストレス溜まるわけ。クソジジイに育てられたおかげで気が短いところとかいやな感じに似ちまってたからさ。だから、学校行くようになってしばらくたった俺は今にも爆発しそうになってて、かえって何にも言えなくなっちまったんだ。何があってもだんまり。誉められても怒鳴られても黙ってた。クソジジイの蹴りでぶっ飛ばされてもやり返さないで膝を抱えてたら、あいつ、初めて心配しやがった。蹴りのダメージじゃねェ、やり返さない俺の心の中を。
 それでさ。それから何日かした店の定休日にさ・・・ジジイが俺に箱を持ってきた。何個も小さな穴を開けた茶色の段ボール箱でさ。その中に、いたんだ。コロコロの子犬が。
(言葉を切ったサンジはゾロの膝の上からアキが体に巻いているショールの裾に手を伸ばしては転がり落ちる子猫に目を向けた。その顔には再びやわらかな笑みが浮かんだ)
 そいつより大きかったな、多分。俺がガキだったせいもあるかもしれねェけど、子犬のくせに結構ずっしり重くてさ。でも最初から不思議に俺の顔をじっと見るやつで、千切れそうに尻尾を振ってたな。
 ・・・俺さ、単純なんだけどその日から毎日楽しくなっちまって・・・。朝は時間ぎりぎりまでそいつと散歩して、学校から飛んで帰って遊んで、夜は一緒に寝た。ブルーは・・・あ、これ、犬の名前・・・どんどんでかくなって、気がついたら俺と同じになって、冬には俺を超えてた。床で一緒に寝転んでるとよく寄っかからせてくれてさ、そのまま昼寝しちまうこともよくあった。クソジジイ以外の誰かが俺を起こそうとすると怒って唸るんだ。可愛いだろ。クソジジイもなぜかブルーには弱くてな~。俺を起こしに来たらブルーがじっとジジイの顔を見上げて訴えるから仕方なくてそのまま戻っちまったってよく言われた。
 そのうち学校の帰りにブルーが迎えに来るようになって、んで俺の周りにいつの間にかガキがいっぱい集まってた。最初は顔を顰めてた先生たちも撫ぜに来たりさ。気がついたら明るい学校生活になってた。喧嘩して怒られたり参観日にジジイが来て死にそうな気分になったり。その全部がブルーのおかげだったんだ。あいつが逝っちまうまで俺の一番の友達で・・・。あいつは雪みたいに真っ白な犬だったから、こんな天気の日はやっぱり思い出しちまうんだよね。

「・・・あったたかったんだね、すごく」
 囁いたアキの声がかすれるとゾロはアキの手を引いて自分の隣りに座らせた。
「そう、すごくね。今でも覚えてるんだ、嬉しくて楽しくて安心して・・・あんな気持ちで眠ることってこれからももうないのかもしれないな」
 灰皿の上で煙草を捻ったサンジの手を眺めていたゾロは次の煙草を取り出そうとする動きを止めた。
「んだよ。驚かすな」
「煙を吐くより電話でもしてこい・・・あの人に。お前、今日は休みなんだろ」
 サンジの頬に赤みが差した。
「・・・んだよ、雪見酒でも飲もうってのか?お前はどうでもいいけどよ、アキちゃんが行きたいって言うんなら・・・電話してテーブルをとっといてもらう。・・・どうでもいいけど、アキちゃんの手を離せよ、クソマリモ」
 どう聞いても迫力に欠けるサンジの声にゾロはニヤリと笑った。
「騒ぐ前にお前もやってみろ。テーブルは二人用の小さいやつでいい。お前はカウンターに置いてってやる」
 そう言いながらもそっとアキの手を離したゾロの手はひどく熱を持っていた。心臓の鼓動を意識していたアキは小さく息を吐いた。
 やはり三者三様に恋愛に不器用だった。思わず顔を見合わせて苦笑した。
 ふと、サンジは呟いた。
「あのさ、もしも俺、邪魔だったらさ・・・ちゃんと一人でマリエさんのとこ・・・」
「雪見酒なんだろ。ったく、ガキみたいな顔しやがって」
 本気で苦笑したゾロはいつの間にか眠っている子猫をアキの膝にのせた。
「1時間ぐらい飲んだら俺たちは店を出る。あとはお互い気が向くままだ」
 気が向くままに、きっとそれぞれに静かな時間に手を伸ばす。その中でもしかしたらほんの少しだけあたたかさを与えたり受け止めたりできる瞬間があるかもしれない。
「同じ方向に同じ感じに気持ちが向いてる時ってさ、わかるようなわかんないような・・・何かドキドキしねェ?」
 サンジがそう呟いたときアキとゾロの顔にゆっくりと微笑が浮かんだ。
 てへへっと煙草を咥えたサンジは再び窓の外に目を向けた。

2005.12.13