睡夢

「・・・・ん?」
 階段を上がり通路を曲がった途端、数メートルおきに設置されている照明の灯りの中にひとつの光景を見たゾロは、一旦足を止め、目を細めた。
 恐らく、彼の部屋のドアの前に膝を抱えて座り込んでいるように見える華奢な姿・・・・・しかも、多分眠っているらしい。
 そして、その眠っているらしい姿から20センチほど間隔をあけて壁に寄りかかりながら立っている細身の男・・・・こっちはスーツ姿だ。
 ゾロが見えている光景にどこか懐かしい既視感と疑問を同時に感じた時、男は唇に加えた煙草に火をつけた。その赤い火を合図と受け取ったように再び歩き出したゾロは、無言のまま自分の部屋の前まで歩き、2つの姿を交互に眺めた。
「ようやく帰ったか・・・クソマリモ」
 時は深夜。
 遅番上がりにしてもあまりに遅すぎるだろうという時間に、サンジはジロリとゾロを睨んだ。
「おせェっつーの!アキちゃんが風邪でもひいたらどうするんだよ」
 怒りながらもサンジの声は低く、アキの睡眠をじゃましないように気を使っているらしい。ゾロは身体を丸めているアキを真上から見下ろした。
「・・・・また、鍵が・・・・・ってわけじゃないみてぇだな」
「当たり前だろうが。そんなんだったら、とっくに俺の部屋であったかくさせてるさ。じゃなくてよ・・・・なんつぅか・・・・アキちゃんは明日・・・じゃないか、もう12時過ぎたな・・・今日!とにかく今日お前に会いたくてここで待つって言ったんだよ。アキちゃん、ずっと仕事だったろ?で、1時間くらい前に俺が帰ってきたら、もうここにいたんだよ。部屋で眠っちまったらもしかしたら疲労で丸1日以上眠り込んじゃうかもしれないと思って、そうならないようにここで待とうと思ったんだと。危ないから俺がボディガードやるって言ったら、仕事明けの俺の事を気遣って絶対ダメだって言われた。だから、そっと玄関から時々様子を見てたんだ。そしたら、アキちゃん、やっぱ疲れてるんだろ・・・・結構すぐに頭がこくりこくりしだしてよ。まあ、おかげで俺はこうやってアキちゃんの隣りに立てたんだけどな。・・・・・てことで事情は理解したか?ったく・・・・この身分不相応幸せマリモ」
「・・・・何だそりゃ」
 呆れながらサンジに目を向けたゾロは、色白の肌に現れている疲労の色を見た。
 まったく・・・どいつもこいつも。
 唇に浮かんだ微笑を隠すように屈みこんでそっとアキを抱き上げたゾロは、顎でサンジにドアを指し示した。
「自分の方こそすぐにでもベッドにぶっ倒れたいって顔しやがって。・・・・・ドア、開けろ。お前も入るんなら、床と毛布を貸してやる」
 サンジはふわり、と笑った。
「あのなァ、俺はな~んにも知らないことになってるんだぞ?どの面下げて目を覚ました時のアキちゃんと顔を合わせられるんだよ。いいから、ほら、早くどっか居心地よさそうな場所に寝せてやれよ。眠らせてやるんだぞ・・・・まさかと思うが・・・なんというか邪念に走るな・・・・ていうか・・・ええと・・・・」
 今度こそ本気で呆れたゾロは思わず口角を上げた。
「心配ならお前が添い寝でも何でもしてやればいい」
 ゾロの予想通り、サンジは真っ赤に頬を染めた。
「馬鹿言うな!・・・とにかく、任せたからな!ええと・・・今日は・・・・。いや、もういい!」
 一人、自分の胸の中で何か自問自答を繰り返したらしいサンジは、クルリと背を向けた。
「今日は・・・・ううう、もう、やっぱ、いい!」
 大股歩きで離れていく後姿をゾロは声を出さずに笑いながら見送った。

「ん~なう?」
 ゾロに向かって一目散に駆けて来たフレークは彼の腕の中のアキに気がついたのか、首を傾げて静止した。恐らくは一気に肩まで駆け上るつもりだったのだろうが、トコトコとゆっくりと歩み寄ってゾロの足に手を掛ける様子は、さすが気配に敏感な生き物だと少しだけゾロを感動させる。
「眠ってるだけだ。ほら」
 ゾロが膝を折ってアキの姿を見せると、フレークはそっと近づいてアキの髪に鼻をつけた。
「だからお前もな、騒がないで大人しくするんだぞ」
 アキの身体をソファに下ろしたゾロは寝室から持ってきた毛布を掛けてやった。それからフレークを見下ろし、バレたらサンジが煩いだろうなと思いながら、深夜ということに目を瞑ってフレークのご飯皿を満たしてやった。まだ幼さの残るフレークは、食べるととにかくよく眠る。上品とは言えないテーブルマナーで食事をたいらげた子猫が丁寧に顔を洗うのを見守ってから、ゾロはその小さくて柔らかい身体をつまみあげてアキの隣りに置いた。
「アホコックの代わり、してやれ」
 フレークは1回2回とアキの頬や服に鼻をくっつけたあと、グルグルと円を描いて2週し、アキの脇で身体を丸めた。
 ゾロはようやくアキの寝顔をじっくりと眺めることが出来た。
 メタの化粧を落としたままのはずの素肌。
 色素の薄い白い顔、頬に触れそうでギリギリ触れていない睫毛。
 鼻腔と小さく開かれた唇から感じる呼吸。
 僅かに暖かそうな色に染まりはじめた頬。
 アキはこれまでに見たことがないほどぐっすりと眠り込んでいた。それだけ今回の仕事の疲労が大きかったのだろうと思ったゾロは、それでも部屋の前で待ち続けるという暴挙というか愚行に出たアキのその気持ちを想像し、ふっと笑みを浮かべた。
 不器用なんだよな、やり方が。
 思いながら、そんな不器用さこそに自分が強く惹かれていることを意識し、苦笑した。飲もうと思っていた酒はやめ、シャワーを浴びることにした。

 ゾロがバスルームから戻ってみると、アキはどういう寝相の結果なのか、床で身体を丸くしていた。ちゃんと毛布にくるまったままなところが微笑ましい。またソファに戻してやろうかと考えたゾロは、ただ真剣に眠るアキの顔と、律儀にその背中の上で腹を見せて仰向けに寝ているフレークを見て、やめた。たまには、床にごろ寝もいいだろう。幸い、敷き詰めてあるカーペットは厚いから身体もそう痛くはないはずだ。
 ゾロはもう1枚毛布を持ってくると、アキから少し離れた位置に横たわった。そこからなら片肘をついて頭をのせれば、ちょうどアキの全身を見守ることが出来る。
 無心に眠る姿を見ているとサンジが言うところの『邪念』の出番などなく、ただ、自分が間に合ううちに戻ることが出来た幸運に乾杯したくなった。本当は、別の仕事を入れることも出来たのだ。アキの今回の仕事は、間違うとあと1週間を覚悟しておかなければならないものだと聞いていた。それならいいか、と半分決めかけたゾロだが、思い直して今夜は部屋に帰ろうと決めた。そして、それは正解だった。他人になりきって心身ともに消耗しきったはずのアキが部屋の前にいるのを見た時、帰ることを決めた自分を思わず心の中で誉めた。そして、スーツのままで待ちぼうけていたサンジに、多分口から言葉として出すことは一生なさそうなことを思った。
 ほんとうに、お前たちは。
 自分の顔がもしかしたら一人気味悪く微笑を浮かべてしまっているかもしれない。そう思い当たったゾロは毛布をかぶり、その行動を馬鹿馬鹿しく感じて頭をズボッと出した。
 何をやってるんだろうな、俺も。
 適度に疲労している身体は素直に眠る気になっているのに、頭の中が勝手に騒いでいらない思考を紡ぎ続ける。こんな気分は初めてかもしれなかった。特に、自分では意識していないはずの、年に1度のこの日には。
 まあ、いいか。無理に急いで眠る必要もない。
 ゾロは片手を伸ばしてクッションを引き摺り下ろし、頭をのせた。こうすると、ちょうどいい具合にアキとフレークを眺めていられる。
 ゾロはそのまま寝返りも打たずに横たわっていた。やがて、その口から欠伸がひとつ、ふたつと漏れ始めた頃には、カーテンの向こうの空がやわらかく白みはじめていた。

 ゾロが目覚めたのは、小さな手が軽く鼻にパンチを食らわせてきたからだった。予想通り、それは腹をすかしたフレークで、時間を見るともう昼を過ぎていた。やはり、夜中に禁を犯して1回食事をさせておいてよかった。ゾロはホッとした。普段ならフレークは下手をすると朝6時前にはもぞもぞと起き出して空腹を訴えるのだから。
 それでも、どうやらフレーク自身もまだぐっすりと眠っているアキに遠慮はしているらしい。猫なりに考えた身振りと動作で空腹を告げる姿は妙に微笑ましかった。
 お前も、どいつもこいつも、の一員か。
 物音を立てないように極力気をつけながらサンジが作り置きしていった最後の食事をフレークに与えると、ゾロはまた毛布に潜り込んだ。心も身体ものんびりと弛緩していた。たまにはこういうのも悪くない。
 ゾロは食事を終えたフレークがまたアキの毛布の上に戻るのを眺めた後、ゆっくりと目を閉じた。

 次に目を覚ました時には、さすがに頭が重くなっていた。腕時計は今がすでに夕方と呼ばれる時間になっていることを示している。
 ゆっくりと頭を回すと、ちょうどアキの瞼が静かに持ち上がったところだった。
 思わず息を潜めたゾロは、アキの表情の変化を見守った。
 どう見ても寝ぼけている重たそうな瞼のまま、先ず、毛布からゆっくりと出した自分の白い手を眺めた。それから自分の身体を覆っている毛布に指先を触れ、背中でタイミングよくニャアと鳴いたフレークの存在に目を丸くして・・・・・。
 次の瞬間、アキは勢い良く身体を起こし、転がり落ちたフレークを反射的に片手で受け止めた。
「・・・・大丈夫?フレーク。・・・・あの・・・・ゾロ、今っていつ?ええと、つまり、何日?」
 寝癖のついた髪が左右にはねている。もともと普段は化粧気のない顔は、いかにも寝起きの雰囲気で、それでも、目だけは真剣な表情になっている。
 ゾロは久しぶりに声を出して笑いながら起き上がった。
「11日だ。焦るな。頭、ふらついてるぞ」
 アキは額を抑えて数秒の間、目を閉じた。さぞかし目が回っているのだろう。ゾロは立って冷蔵庫から水のボトルを出した。冷たすぎても毒な気がして、氷は入れずにグラスに水を注ぎ、テーブルにのせてやった。
「すげぇ時間に『おはよう』だな」
「あ、あの・・・・おはよう、ゾロ」
「ああ」
 思い詰めた顔になったアキは、グッと両手で拳を作った。
「それからね、あの・・・・お・・・・お誕生日・・・・」
 言いながらどんどん赤くなっていくアキの顔に、ゾロは苦笑した。それでも黙って待っていると、アキは大きく一呼吸し、再び口を開いた。
「・・・お誕生日、おめでとう、ゾロ」
 そう言ったアキの瞳の真剣さに心地よく貫かれながら、ゾロはアキの前に座って胡坐をかいた。
「・・・ありがとう。ったく、不思議なやつだよな、お前は。これを言うために真夜中の外で俺を待ってたんだろ?普通、やらねぇぞ。こんなに爆睡するほど疲れてたのに」
「いや、あの、本当はゾロが帰って来たときに眠ってるつもりはなくて、ドアの前で、こう、もうちょっとスマートにお祝いを言って・・・・ちゃんと自分の部屋で眠る予定だったんだけど」
「ま、その予定がひっくり返った方が、俺には・・・面白かったけどな」
 本当はもっと違う言葉で言うのが正しいのかもしれなかったが、今のゾロにはそうとしか言えなかった。すると、アキは小さく笑った。
「面白がってもらえたなら、かえって良かったのかもしれないね。でもね・・・・夢の中でなら、もっとちゃんと言えてたんだけどな」
「・・・・・そんな夢まで見てたのか?」
「うん。何だか繰り返して見てた気がする。でね、毎回ちゃんと言えてすごくホッとできたの。都合が良すぎる夢だよね」
 そう言ってまた笑ったアキを・・・・気がついた時にはゾロの腕が勝手に抱きしめて胸に抱きこんでいた。その自分の勢いに焦り、そっと腕の中を見下ろすと、アキはすこし目を見開いたまま真っ赤になっていた。
 怖がるなよ。
 胸の中で囁いたゾロの言葉がまるで聞こえたように、アキはほうっと息を吐き、そっとゾロの胸に頬を寄せた。
 ゾロも小さく息を吐き、アキのやわらかな髪を撫ぜた。
「にゃう!」
 自分も、と言いたげなフレークの声が聞こえ、2人は笑った。
「お前にはな、まだ役目がひとつ、残ってる」
「・・・・にゃ?」
「多分一人でドタバタやってるあのアホコックのところへ行ってこい。そうすれば、あいつもこっちに来るだろ。合図だと思ってな」
「にゃう!」
 張り切って尾をピンと立てて走り去ったフレークを2人は一緒に見送った。
「言ってる事が全部わかってるみたいだよね、フレーク」
「案外、『アホコック』って名前に反応しただけかもしれないぞ?これがあいつの名前だって事はとっくに理解してるだろうからな」
「・・・・正確には、名前じゃないけど」
 フレークの合図を受け取ったサンジはどんな顔で姿を現すだろう。
 恐らく、偶然と言う顔をしながら両手に大きな皿を持って、気が向いただけだと言いながら自慢のケーキを持ってくるのだろう。飲み物からテーブルを飾るちょっとした花まで、多分、抜かりはない。それでもあくまで、気が向いた偶然なのだ。
「今のうちに、顔を洗っておいた方がいいみてぇだな」
「うん・・・・」
 言いながら最後に少し強くアキを抱いたゾロは、そっとこすり付けられた額の感触に破顔した。

「だから、ほら、お前もモグモグやってねェで、ちっとは走れ!」
 そんな掛け声が通路に響いた頃、仲良く背中を並べて歯を磨く2人の姿があった。

2007.11.25