青い薔薇 - 1/11

a blue rose
青い薔薇

花開く時、それは明るい陽光の元よりもむしろ月の光の下の方が似合うかもしれない。
香りは最初は控えめに感じられるが次第に嗅覚に忍び込んで占領し、人の心を魅惑してやまないだろう。糸車のつむに指を刺された姫が眠りに落ちて城全体の時が止まったように、深い魅惑はその場所を離れがたい気持ちを呼んで眠りと時の停止へと続くだろう。
見えはじめた硬いつぼみはまだ色がないに等しい緑色を呈している。
これから膨らみ色づきはじめるそれがもしも願いどおりの姿を見せたなら。
きっと祈りはかなうだろう。

店にいたのはカウンターを挟んで向かい合うオーナーのマリエとサンジ、テーブルに座る一人の男、それだけだった。
嬉しさが溢れているようなサンジの後姿を見た瞬間に他で時間をつぶして出直そうかと考えたゾロは、立ち上がったマリエの微笑に引き止められた。
サンジが振り向いた。
「なんだ、早いじゃねェの。今日は新作のオムレツがあるぜ。試してみろ」
・・・ということは、マリエとサンジが一緒に考えたレシピということだ。
(甘ったるいかもしれねぇな)
ゾロは苦笑いしながらカウンターに座った。
「アキは?」
「今日は仕事だから時間によっては顔を出せねェかもって言ってたぜ」
だったら寂しいよな、と言いながらサンジはひとつ頷いた。するとマリエがゾロの前に形の良いガラスの猪口を置いた。
ゾロは黙って顔を上げて2人を見た。
「今日から冷たいのに限って米の酒を置いてくれるんだとさ。お前にマリエさんのカクテルは勿体ねェしなぁ」
マリエはゾロが見たことのない酒の小瓶を猪口の隣りに置いた。
「1本目はお試しということで、ね」
マリエが小声で囁いた。
軽く捻って蓋を開けると香りが上がってくる。ゾロは猪口に8分目ほどついで口に運んだ。含んだ瞬間の辛さと飲み込んだ後のまろやかさ。
「いい酒だな」
ゾロが言うとサンジが身を乗り出した。
「ったりめェだろうが。お前、もうちっと嬉しそうな顔できねェのか」
「・・・お前みたいにか?」
口だけ文句を言いながら止めきれない笑みがこぼれているサンジの顔が紅潮した。ゾロは口角を小さく上げた。
微笑んだマリエは2人の方に少しだけかがみ込んだ。
「向こうのテーブルの人・・・あなたが知ってる人かしら?」
「ん?」
ゾロは後ろを振り向いた。店に入ってきたときはテーブルに座っていた人影程度にしか意識しなかったその人物は、男であり、恐らくゾロと同じ程の年齢であり、そして・・・額に一筋の傷があった。
(あの傷は・・・・)
ゾロが振り向くと同時に立ち上がったその男はゆっくりとカウンターに近づいてきた。
「ゾロ、君かい?」
「・・・カズヤか?」
後ろに撫でつけられた黒い髪。白く秀でた額。斜めに走る一筋の傷。
1分の隙もなく、それでいてどこか無造作にスーツを着こなしているその姿はやがてゾロの記憶に残る少年の残像と一致してぴったりと重なった。
「あのとても綺麗な女性はここのオーナー?君の恋人かい?」
1つのテーブルを囲んだ男3人の中で無邪気とも言えるカズヤの声が響いた。
ゾロは猪口を持った手を止め、サンジは大げさなほど眉をつり上げた。
「違う違う!マリエさんは俺の・・・じゃねェけど、とにかくこのクソマリモとは全然関係ねェ!」
「・・・なるほど、勘違いか。ゾロはいつも年上の女性に人気があったから、てっきりまた・・・と思ったよ」
「へェ・・・・」
思わず呟いたサンジは眉をしかめた。
「アホ。本気にすんな」
「馬鹿、お前がそんなにもてるはずねェだろ。わかってるよ!」
2人の様子を見ているカズヤの唇が曲線を描いた。
「街でゾロのことを知らない奴はいなかったよね。強くて、怖そうなのに優しくて、馬鹿騒ぎにはいつも担ぎ出されて・・」
「へェ・・・」
サンジはまた呟いた。ゾロの、大抵の場合サンジよりも落ちついて見えるところに時々芽生える対抗心。それを満たしてくれる情報をこの男は持っているようだ。面白い。
(幼馴染って奴かな~)
ゾロは盃を干した。
「お前、今、どうしてるんだ?この街にいるのか?」
カズヤはゾロの顔を見て不思議な笑みを浮かべた。
「いや、この街には住んでないんだ。君に会えたのはものすごい偶然だ。僕の夢を叶えるには都会は向いていないしね」
「夢か・・・」
ゾロの頭の中に記憶の中の1場面が描き出された。
「今も家族で花を作ってるのか?」
カズヤの瞳がかすかに曇った。
「今は、僕1人だよ。やっと・・・ここまで来たんだ。もうすぐ夢が叶うかもしれない」
「そうか」
ゾロはカズヤの顔を見た。
カズヤの笑みは少しずつ大きくなっているようだった。
「あれが咲いたら君も見にきてくれる?」
「・・・そうだな」
2人は互いに視線を逸らさなかった。
「じゃあ、連絡するよ、その時が来たら」
カズヤは立ち上がりテーブルに数枚の紙幣を置いた。
「行くのか」
「君の顔を見ることができたからね」
カズヤは2人に背を向けると戸口に向かって歩きはじめた。
「・・・ゾロはすごくいい奴だけど、一緒にいると怪我をするよ・・・サンジ君」
「え・・・?」
サンジが顔を上げたとき、カズヤの姿はそこになかった。
「あいつ、今、何て・・・」
サンジは言葉を途中で止めた。目の前にあるゾロの横顔は見たことがない表情を浮かべていた。

2人はそれから30分ほど飲んだ。
いつも以上に無口になってしまったゾロの代わりにサンジはあれこれメニューを見繕い、増えた客たちの相手をするマリエとの間を往復した。
ゾロはサンジが皿に盛った料理は全部素直に食べた。
やがてその表情はゆっくりとほどけていった。
「なぁ・・・さっきのあいつ、お前のダチじゃねェの?」
思い切って声をかけたサンジは反射的に返されたゾロの一瞥に唇を噛んだ。
ゾロはほうっと息を吐いた。
「あいつは街一番の金持ちの息子だった。どのくらいの金持ちなのかは知らねぇ。勉強ができて信じられねぇくらい無邪気な奴で、いつの間にか気がついたら俺のそばにいた。なんでかはよくわからねぇ。俺とあいつはいろんなもんが全く違ってたのにな」
サンジは煙草を咥えて火をつけた。
「確かに、育ちがいいっつうか、いかにもそんな感じの奴だったな」
ゾロは手に持っていた箸を置いた。
「俺は別にあいつは嫌いじゃなかったし邪魔になったわけでもねぇから・・・結局俺たちは結構一緒にいる時間が長かったな。道場の外にあいつ専用の椅子まで持ち込んでたんだぜ。時々そんな風に思いがけない行動をする奴だったな」
「へェ~、なんかお前に惚れてたみてェだな」
サンジがすました顔で言うとゾロはじろりと睨んだ。
「ば~か。ガキの頃ってあるじゃねェか。ほら、腕っ節が強くてよ、愛想がなくて睨みきかせてるくせに妙に男にも女にも人気ある奴。無茶苦茶鈍感でよ、かわいい女の子の熱い視線にも全然気がつかなくてよ、くそ~~~、そいつの代わりに俺を見てくれ~~みたいなよ・・・」
不思議そうなゾロの表情に気がついて、サンジの言葉は尻すぼみに空間に吸い込まれていった。
「お前の実体験か?」
「るせェ!いいから、続けろ!」
「・・・いいけどよ。あの頃、今考えれば、俺がいた街も周りの街も何年か続いた異常気象や工場の閉鎖やらで大人たちの景気はかなり悪かった。俺はいつもどおりの道場通いの毎日で、面倒くさそうだったり難しそうなことは考えなかったから気がつかなかったが・・・・多分、その頃もあいつの家はしっかり金持ちで、そのことを心のどっかでうらやましがってる人間が多かったんだ、大人もガキも。俺の街はいい。うらやましくたってあいつやあいつの家族がどんな人間か知ってるから、それ以上のことはねぇ。でも、あいつを直接知らない連中には・・・・あいつは妬みやいろんなもんをぶつける格好の標的に見えたのかもしれねぇ」
「え・・・じゃあ、あの傷・・・」
ゾロは頷いた。
「表面的には俺との縄張り争いってことになってた。争うも何も俺は別に何にもいらなかったから連中がどこを俺の縄張りだと思ってたのかも知らねぇ。とにかく連中はあいつを人質にとって俺を呼び出した。そして俺は・・・1人で行った」
「で、あの傷がついたのか。・・・お前はどうだったんだ?無傷ってわけにはいかなかったんだろ?」
「ボコボコやられたさ、負けはしなかったけどな。・・・ほんとはあいつを狙ったやつは全部自分で受けるつもりだった。でも、ひとつだけ受け損ねた」
ゾロは大きく一口飲んだ。
「じゃあ、あいつの怪我はあれだけか?・・・なら、よかったじゃねェか」
ゾロはサンジの顔を見て、しばらくしてからニヤリと笑った。
「多分、お前ならそうだろう。少々多めにやられても、状況的に負けさえしなけりゃ納得だ。でも、あいつはあの時まで喧嘩なんかしたことがなかった。誰かに手をあげられたことがあったかどうかもわからねぇ。それだとよ、いろいろ違ってくるだろ」
「・・そんなもんかねェ」
「それからじきにあいつは・・・あの一家は街を出て行った。それから今日まで、あんまり思い返すこともなかったな」
ゾロは戸口のほうに目を向けた。
(思い出さないなんてことができんのかよ、こいつに)
終わったことは終わったこと。確かにゾロはいつもとても割りきりが良くて、時にサンジを怒らせたりあきれさせたりする。ただそれには、ゾロ自身のことに限り、という条件がつくようにサンジには思える。ある人間を守ろうとして守りきれなかったとしたら、それはゾロの中ではずっと終わらないことかもしれない。
その証拠に。
ゾロは生活の手段として用心棒のようなことをやっている。それは、守りきれなかったその日からずっと続いている何かではないのか。
「ま、いいさ。飲もうぜ。アキちゃんに電話でもしてみよう」
サンジが胸のポケットから携帯電話を引っ張り出した時、店のドアが開いた。
息を切らせたアキの姿を予想して顔を上げた2人は、そこにいる思いがけない姿に目を丸くし、眉をひそめた。
「何か、おかしい。あんたらの待ち人はどっかへ消えちまった」
ポートガス・D・エース。
いつも陽気な男の顔に浮かんでいるのは焦心の色だった。