真夏の夢

 携帯電話を耳にあてたサンジの身体が瞬間的にこわばった。
 見知らぬ男の声がボツリと言葉を吐いた。
「『アホコック』か?」
 ただ単に当たり前のことを確認するように。
 しかもその声の主が使っているのはゾロの携帯電話のはずで。
 いや、そんなことよりも・・・
「どこの誰がアホコックだ!突然人に何を言いやがる」
 考える間もなくサンジは反射的に怒鳴り返していた。

 小雨まじりの空気がサンジの車のガラス窓に時間の間隔をおいて細かな雫をつけていた。
「遅ェな、あいつ。そろそろ出ようか、アキちゃん。途中で出くわすかもしれないし、多分仕事が長引いちまってるんだろ、ゾロのヤツ」
 場所はアキが入院していた建物の門を出てすぐの空き地だった。退院するアキをサンジが迎えに来て、昨夜から仕事に出ているゾロとここで落ち合う約束だった。
 サンジがエンジンをかけたその時、胸ポケットの中で携帯電話が鳴った。そして冒頭の場面が続く。
 アキが尋ねるような視線を向けるとサンジは小さく頷いて電話のボタンを押し、フロントパネルの上に載せた。
「ぬしの声には聞き覚えがある。わたしはこの電話に登録してある2つの名前のうちの片方を選んだに過ぎないのだが・・・ロロノア・ゾロを知っているな?」
 電話から車の中に流れ出る声にアキはかすかに首を傾げ、サンジは大きく眉を上げた。サンジにもこの声は聞き覚えがあった。
「あんた、ミホークとかいったな。俺はこの間ゾロと一緒にいた・・・名前はサンジだ。だからこっからはふざけた呼び方はしねェでくれ」
「同感だ。わたしも口にするにはかなり抵抗があったからな。しかしそうとしかこれには書いてなかったのだ。ところで、ぬしは今身体が空いているか?」
 ミホークの声がゆったりと話し続けるにつれてアキとサンジの身体から緊張感が抜けて行った。この口調なら恐らくゾロの失命を告げるための電話ではないだろう。2人は同時にそう考えていた。
「時間はあるといえばあるけど・・・・。どういうことだ?」
「病人を引き取りに来てもらえると有難い。わたしにはこれ以上手を出させない野獣が一頭ここにいる」
「はぁ?」
 サンジは目を丸くした。
「できれば『アキ』という人間も伴って来るのが良いかもしれない。ぬし一人では捕獲は難しかろう」
「捕獲って・・・・おい」
「道に迷ったらこの電話に連絡を。とりあえずはぬしが着くまで家にいよう」
 電話は切れた。サンジは電話を手にとってボタンを1回だけ押したが、すぐにやめてポケットに落とした。
「今のはジュラキュール・ミホークという人・・・だよね?」
 アキは入院中に見舞いに来たサンジとエースからその男の話を聞いていた。
「うん。けど、何で?ゾロが病気?あの男の家って・・・どうして」
 サンジはそこまでで後の言葉を飲み込んだ。アキの顔に浮かんでいる表情が心に大きく触れた。
「何でもいいや。とにかく行こう、アキちゃん。えっと・・・先ずはナビのセットだな。街の名前は覚えてるんだ。ちょっと遠かったな~」
 アキの瞳が機械の設定をするサンジの手を見つめている。PCや他のサンジにはよくわからないハードを使い慣れているアキの方が実はナビの扱いも上手いかもしれないとサンジは思い、ちらりとアキの顔に目を走らせた後心の中で首を横に振った。アキの顔には不安そうな色が漂っていて、サンジの手を見つめている様子はなんとなく見覚えがあった。ああ、あれだ。新しい声帯をいろいろ調整したあとで初めてアキが声を出すのを見守っていた時のゾロとサンジ。多分きっと今のアキみたいな顔をしていた。無表情なゾロの顔に見たあの表情はサンジが勝手に想像しただけだったのかもしれないけれど。
「サンジ君・・・」
 何を言おうと思ったのかわからないままに中途半端で口を閉じたアキにサンジは笑いかけた。
「とにかく、急ご。ちょっと長いドライブになるから弁当持ってくればよかったね」
「・・・うん」
 フロントガラスに音を立てて雨粒がぶつかりはじめた。

 雨上がりの真夜中に辿りついた崖の上の一軒の家。
 いつの間にか迎えに出ていた黒衣の男はサンジに軽く頷いた後、金色の瞳でアキを見た。抱えている不安をすべて見抜かれそうな気がしてアキは2度目を瞬いた。それでも目を離せなかった男の瞳はやがてアキの中の怯えを押しやり安定感を与えてくれるようで、アキは心の中でそっと感謝した。
「こっちだ」
 互いに名乗らないままミホークは先に立って家の裏に回った。そこには前にサンジが見たことがある広い薔薇の植え込みが続いていたが、ミホークの足はそこで止まらずにさらに先に進んだ。
「・・・温室・・?」
 雲間から漏れはじめた月明かりを反射するその建物は地面にまっすぐ突き刺した水晶のような形をしていた。ミホークが入り口の扉を開くと銀色の雫が夜気に飛んだ。
「あれは奥にいる」
 そう言い残して踵を返した姿は声を掛ける間もなく離れて行き、扉を手で押さえたサンジがアキを先に通した。
 刺しこむ月明かりの中、小さな温室の中には正方形の作業台、いくつか鉢がのっている細長い台、床に転がる大小さまざまな鉢、ホースなどが浮かび上がって見えた。
「あ・・・」
「あれか?」
 声を重ねた2人の目に作業台の奥、床の上に黒い影が見えた。近づいてみるとそれは毛布にくるまった人の姿で、短めの緑色の髪に金色のピアスが見えてきた。
「ゾロ!」
 同時に大きく足を踏み出した2人の身体が作業台にぶつかってガタガタと音をたてた瞬間、小さな金属音とともにアキの額を正確に狙う銃口が現れた。毛布の間から突き出された銃を持つ黒い腕。焔の中の鋼のような色に染まった鋭い瞳。ゾロの全身から放たれた殺気を受け止めたアキは瞳を大きく見開いた。目の前にいるのはまるで手負いの獣のような・・・・
「てめェ、何してやがる!銃を向けてる相手はアキちゃんだぞ、わかってんのか、馬鹿野郎!」
 ふわり、と跳んだサンジの左足がゾロの銃を蹴り飛ばした。衝撃に唇の端を動かしたゾロの顔に徐々に表情が戻りはじめた。
「・・・アキか?」
 一歩踏み出したアキの身体はゾロの声を聞いた途端にバランスを崩したように膝をついた。その両手はサンジに蹴られたまままだ宙にあるゾロの右手を握っていた。右手は熱く、細かく震えていた。
「・・・熱がある・・・ゾロ」
「熱だか何だか知らねェが、このクソマリモ!何寝惚けてやがる。てめェの・・・いや、とにかくアキちゃんを殺す気か」
「・・・サンジか」
 呟いたゾロは右手をアキに預けたまま左手でアキの片手を掴んでいた。そのまま一回強く引かれてアキの身体はゾロの腕の中に倒れこむ。
「うわ、馬鹿、俺が怒ってるってのに・・・おい、こら、ちょっと待て!ったく、物騒な熱の出し方する野郎だな」
 反射的にアキを取り戻そうとしながら、それでいてこれはもしかしたら邪魔をしていることになるのだろうかと顔を赤くしながらサンジがアキの腕を引っ張ると、ゾロの右手がサンジの手首を掴んで引いた。
「え?」
 驚いて抵抗する暇を見つけ損なったサンジは目を丸くしたままゾロの胸に額をぶつけた。
「何やってんだ、こら!おい!」
 顔を持ち上げたサンジは同じようにゾロに抱きすくめられているアキと顔を合わせた。しかし、そこにはサンジが予想したような茹蛸のような色に染まった頬はなく、代わりに生真面目で真剣な表情があった。
「サンジ君、ゾロ・・・眠ってるしすごく熱がある」
「はぁ?」
 サンジはゾロの首筋に伸びたアキの白い手を見て、それから今はしっかり目を閉じているゾロの顔を見上げた。気がつけばかたそうな唇から漏れる息もひどく荒い。
「信じられねェ奴だな・・・・」
 再びゾロを起こさないようにそろそろとがっしりした腕の中から抜け出したサンジはため息とともにポケットからタバコを取り出した。同じように抜け出したアキはゾロの身体を毛布でしっかりくるみなおしている。
「水か何か、飲ませたいけど・・・」
 周りを見回すアキの前にサンジはニッコリ笑顔を出した。
「こいつじゃダメ?口にズボッと入れてやって・・・・やっぱり?」
 サンジの手には床から拾い上げた青いビニールホースが握られている。アキは吹き出した。
「水源としては悪くないけどね。グラスか何かあったらいいんだけど・・・」
 結局2人はごそごそとゾロの周囲を探し回ってトレーにのせられた水差しと薬を見つけた。
「飲んだ様子はねェな」
「・・・きっとずっとこうやって一人で身体を丸めていたのかもしれないね」
 誰にも心を許さずに警戒心を秘めて。傷を癒す野生の獣のように。
 水で溶いた薬のグラスを口にあてるとゾロは唸りながら眉をしかめたが、結局全部飲み干した。
「あのミホークって奴にも気を許さなかったのかな」
「うん・・・それとも、お互いに手を出したり出されたりするのを避けてるのかもしれないね」
「ああ、そっちの方がらしいかも。ったく、はた迷惑な病人だよな」
 サンジはゾロのすぐ横に腰を下ろした。アキはゾロの身体を挟んだ反対側に座った。自然と、護るように。
「にしても何か疲れたね。やばいなぁ、俺、明日早番だ」
「サンジ君、帰りの運転の前に少し寝ておかないと。ごめんね、わたしが運転できたら問題ないのにね」
「いや、そんな。俺、アキちゃんにはずっとそのまま乗っける相手でいて欲しいし。・・・ああ、ちょっとだけ寝ようかな。ごめんね、何かあったら起こして」
 目を閉じたサンジはすぐに規則正しい寝息をたてはじめた。思いがけなく静かな時間になった。アキは今更ながらにゾロの力強くて熱かった腕を思い出して頬を染めた。銃口を向けられたあの瞬間も実はアキの心に恐怖はなくただただ魅せられていたということを告げたら、サンジは・・・・ゾロはどう思うだろう。
金色の頭が段々ゾロの方にもたれかかっていく様子を眺めていたアキは、2度3度と漏れはじめたあくびを噛み殺した。

「よく寝てるとこ悪いんだがそろそろ起きてくれ。足の感覚がなくなった」
 髪を撫ぜられる感触とともに聞き覚えがある低い声が頭の上から降ってきた。
 アキは記憶より少々硬めの枕の上で頭を動かし、ぼんやりと目を開けた。こちらを覗きこんでいる顔に焦点があっていく。鳶色の目。昨夜は紅に見えたと思ったが、あれは夢だったのだろうか・・・・
「・・・ゾロ・・・?!」
枕の正体が胡坐をかいたゾロの太ももで、心地よく感じていたのはいつのまにか身体に掛けられていた毛布だと気がついたアキは可能な限り全力で起き上がった。
「いい反応だ」
 ニヤリと笑ったゾロは今度はもう片方の膝枕で寝るサンジ・・・その身体もいつのまにか別の毛布で覆われている・・・の頭を指で弾いた。
「とっくに朝だぞ、アホコック」
 口元をムニャムニャさせていたサンジはゾロの一声で飛び起きた。
「誰がアホコックだ、こらぁ!・・・・って、ゾロ?え・・・おいおい、朝~~~~?」
 それから10分。おしゃべりとにぎわいの90パーセントをサンジが請け負い、片付けと混乱の80パーセントをサンジが終えた時、ようやく足の感覚が戻ったゾロがゆっくりと立ち上がった。
「帰るぞ」
「って、何の説明もなしかよ!」
 叫んだものの実は一番急ぐ理由があるサンジは3枚の毛布を抱えたゾロの後に仕方なくついて行った。アキは水差しのトレーを持った。
 温室を出て表に回ると、戸口に立つミホークの姿があった。
「体調は戻ったのか」
「ああ。迷惑かけたな。バイクはちゃんと返したぜ」
「うむ」
 ゾロがここを訪れた理由を知ったアキはサンジと視線を合わせて頷いた。アキの手からトレーを受け取ったミホークは視線を静かに落とした。
「ぬしの名前が『アキ』か?」
 答えようとしたアキをゾロが遮り、細い身体を背後に押しやった。
「あんたらしくもない。自分から名乗るつもりがないのなら訊くな」
「ああ、そうだな」
 ゾロは車に乗るようにサンジとアキに合図した。
「昨夜は興味深いところを見せてもらった、ゾロ」
 振り向いたゾロの顔にはいぶかしむ様な表情があった。
「・・・俺が熱を出してるとこなんて、あんたは見慣れてるはずだろ?」
「そうではない・・・お前の家族だ」
 ミホークはゾロに携帯電話を差し出した。ゾロは鋭い一瞥をミホークの顔に向けたが、やがて笑いながら電話を受け取った。
「俺は産んだ記憶も育てた記憶もないぜ」
 ミホークの唇にも薄い笑みが浮かんだ。
「そういうお前も護られているのではないのか?」
 ゾロは返事をせずに向き直ると片手を上げた。

 月明かりの下、三匹の子犬が身を寄せ合って眠る銀色の夢。

2005.9.26