夜はお静かに

「いい月夜だから海でも見てろ。ちょっとマリエさんを送って戻ってくるからよ。それからがまたお楽しみだから」
  夜が更けはじめたバラティエ。
  散会時の慌しさと名残惜しさの華やぎの中、何となく人の流れに巻き込まれないように離れて立っていたゾロとアキの横にどことなく猫を思わせる身のこなしで現れたサンジが笑顔で囁いてまた歩き去った。やがて笑顔で手を振るマリエの姿が見え、消えた。
「来週辺り、もう1件仕事運んでくぞ」
 ふわりと2人の前に立ったエースがアキの顔を覗き込んだ。
「なんかボーッとしてるな。疲れたのか?ま、これからちょっとは羽のばせそうだな」
 アキの返事を待たずにエースは笑顔で左手を上げた。
 帰って行く人々の多くは手を振ったり頷きかけたり笑顔を残していった。それに対して曖昧に答えていたアキは最後の1人が出て行くと、ちいさなため息をついた。
「多勢に無勢って感じだな」
 ぼそっと呟いたゾロの言葉がまさしく今アキの頭の中に浮かんでいるのと同じだったので、アキは笑ってゾロの顔を見上げた。お返しに口角を上げたゾロはちょっと間を置いてから右手でアキの手を包み込んだ。驚いたアキが反応するまで待たずに手を引いて歩き出したゾロの肩が揺れた。
「海はあっちだろ」
 ちゃんと理由があるつながれた手。目的地に着いたらきっとすぐに少し距離を置く手。アキが受け取れないほどの思いは込めずにゾロが今なら零してもいいと決めただけの気持ちを伝える手。サンジがいてもきっと怒らずに笑って見ていられる手。
 大きな手のぬくもりが嬉しくて、アキはそっと少しだけ指先を絡めてみた。するとゾロの手がほんの少しだけ握り返してきた気がした。

 原因はマリエの店での一夜だった。
 カウンターでアキの退院祝いの話をしながら飲んでいた3人はいつの間にか店の常連たちに囲まれていた。どうやらそれは久しぶりに顔を出したアキに声を掛けるに掛けられずにいた数人が祝いの話を耳に拾って身を乗り出してきたのが最初のようだった。考えてみれば3人の中のサンジは常連たちの女神を掻っ攫っていこうと企む不届き者だったから店に出入りしはじめた最初から実はかなり目だっていたし、そのサンジが連れて来るようになりそのうちバラバラに顔を出すようになったゾロとアキは端からみるとどうにも謎な組み合わせで、3人はいわばかなりの注目株だったのだ。マリエの話によればアキに個人的に興味があって『もしも今夜会えたら話しかける』的な決意を固めている男たちもいるらしいのだが・・・同時にサンジやゾロ目当ての女たちも・・・どっかり腰を下ろしてグラスを傾けるゾロの姿に圧倒されて気後れしてしまうのだと言う。マリエはそんなゾロを『守護神』と呼んで笑った。
 ともかく、1ヶ月近く間をあけたアキの登場と宴会らしい匂いを嗅ぎつけたことで盛り上がった酔っぱらいたちの勢いがこの日に一点集中して爆発した様子はなかなかのものだった。その結果が散々飲まされてコーヒーカップを前に頭を抱えたサンジとアキ、仏頂面の眉間の皺を深くしたゾロの姿とバラティエでの宴会の招待をもぎ取って意気揚々と引き上げる男女20数名の後姿だった。
 宴会当日の今日、主役のアキは身体がカチコチの状態で短いスピーチをし、顔も声も覚えきれないまま会話をし、ゾロとエースが身体で作ってくれた壁の陰で大急ぎで食事をし・・・そして結局アキはどういう人間なのだろうと楽しげに首を傾げながら帰って行く人々を見送った。自分が何を話したのかほとんど覚えていない、狂乱の時間だった。

 月明かりの下のテラスは海風が冷たく、アキの肩を包むショールを引き剥がそうとするように裾を揺らした。風上に立ったゾロのピアスも揺れる。
「確かに、いい月だな」
 月と海面にできた光の道。辿って行けば海の果てまで、と見える。
「・・・何を食べたのか全然記憶にない」
 サンジにすまないと思いながらアキが呟くとゾロは笑った。
「お前、そんなに食い意地が張ってたか?」
「じゃあ、ゾロは覚えてる?」
「俺はもともと食いものの名前を知らねぇからな」
 反撃をかわされて言葉につまるアキを見たゾロがまた笑う。ゾロの笑顔を見ているうちに溢れそうになったものをこらえて目を伏せるアキを、笑みの余韻でやわらかな表情のままのゾロが見守る。
「・・・焦る必要はないんだ」
 顔を上げたアキの前にゾロの手があった。
「どう考えても長期戦だからな」
 言葉の意味を考えながらゾロの手に右手を預けたアキは、あたたかくて大きな手が微かに震えるのを感じた。自然と笑みがこぼれた。
 その時、空気を伝わってきた短い音が鼓膜を震わせた。
「ピアノ?」
 店の入り口にたったアキは驚きで足を止めた。店内のテーブルはいつの間にか一つを残して隅に寄せられ、中央より少し奥に黒くてつややかなピアノが置かれていた。小ぶりのグランド・ピアノ。蓋は控えめに開けられている。
 ピアノの前に座ったサンジが笑顔で鍵盤に触れ、またひとつ音を流した。
「座って、アキちゃん。で、お前は準備しろよ、奥手マリモ」
「・・・人の事が言えるのか、アホコック」
 戸惑うアキの横をすり抜けたゾロはテーブルの上に置かれた黒い革のケースを開けてヴァイオリンを持った。そのままピアノの前まで歩き、黙ってテーブルに向き直る。
「ほら、アキちゃん。その席はアキちゃん貸し切りだから」
 促されてアキが座ったテーブルには細々と色鮮やかに何種類もの一品料理を盛り付けた真っ白な大皿が置かれていた。
「俺が今日一番力を入れたのはその皿だから、ゆっくり味わってね。ああ、あとさ、このピアノしばらく調律してねェからちょっと音ずれてるかもしれないけど、それはご愛嬌ってことで」
 サンジが目で合図を送ると見慣れた動作でヴァイオリンを構えたゾロが前触れもなく弓を引いた。
 静かなヴァイオリンの音色とそれを受け止めるピアノの音が重なって流れ出した。
(あ・・・)
 アキは窓の外に目を向けた。煌々と照る月のあかり。静かに高まって行くこの曲はこの月を表したものだったはずだ。
 ゆるやかに穏やかに。

 半分目を閉じたゾロの他では見ることができない表情と口元に微笑を浮かべたサンジの鍵盤の上を流れる白い指先。
 アキは最後の一音が宙に吸い込まれるまでほとんど呼吸を忘れていた。
 曲が終わってゾロが目を開けサンジが笑顔で立ち上がっても、アキは身体を・・・手も顔も動かすことができなかった。拍手喝采を送ることが出来ない自分の不器用さを苦く思う気持ちも心の底に小さく押しつぶされて、ただ、身体を震わせて2人を見つめていた。その瞳から涙が落ちた。
 照れたように、そしてちょっと慌てたようにサンジがハンカチを差し出した。
「・・・ほら、ゾロ!お前も・・・」
 サンジの囁きをバックにゆっくり歩み寄ったゾロはヴァイオリンをテーブルに置いて両手でアキの顔を包み込み、目尻に溜まった涙と流れ落ちた跡を拭うとサンジのハンカチで手を拭いた。
「だぁぁぁ~~~、お前が使うな!っつぅか、いいんだけどよ、やっぱちょっと許せねェから離れろ!すぐに離れろ!」
 口をパクパクするサンジの様子にゾロは唇を歪め、アキは微笑んだ。やっと身体を動かすことが出来るようになった。
「ありがとう、サンジ君、ゾロ」
 ゾロの腕をがっしりと掴んだサンジは紅潮した顔で短く笑い、ゾロは頭を掻いた。
「アキちゃんが元気だとすごく嬉しいから・・・さ」
 サンジはゾロの手に再びヴァイオリンを持たせた。
「こっからはちょっと平均年齢上がるけど、少しにぎやかにやるね。どうせぶっつけ本番だ。お前、適当に合わせろよ」
 サンジが言った時ピアノの奥からメロディーが響きはじめた。コツコツいう足元の音でリズムを取るように現れたゼフの手にはアコーディオンがあった。驚いて立ち上がったアキを残してテーブルを離れたゾロがゼフの姿を横目で見ながら確かめるように弓を動かしはじめ、ピアノの後ろに姿を消していたサンジが見慣れた扇形を作ってぴったりと音を合わせながら現れる。陽気な中に物悲しさを秘めた音の重なりがリズムを刻みながら上っては下がり、ひとつの大きな広がりを生み出していく。
 音の中心にいるゼフの渋面は次第に消えて行き、やがて満足そうに髭を揺らした口元には時折白い歯が見えた。
 曲が最高に盛り上がった頃、不意に別の方向から流れ込んだ音の気配にアキは戸口を振り向いた。姿は見えなかったが床に映る人影はヴァイオリンを弾いている。再び振り向いたアキの視線を受けてゼフは短く頷き、サンジは首を傾げ、ゾロは・・・鋭くなっていた眼光を抑えて大きく弓を動かした。
 広がりを増した曲がやがて静かに収束したとき戸口をくぐって現れたのは金色の瞳を持った黒衣の男だった。ジュラキュール・ミホーク。どことなく面白がるような表情で店内、それから立っている4人に視線を走らせる。
「何であんたが・・・・」
 アキの傍らに立ったサンジは斜めにミホークを眺め、ゾロはアキの前に出た。
「満更知らない仲でもないのでな」
 ミホークが送った視線を辿った先にはことさらに表情を抑えたゼフの姿があった。
「ジジイ・・・?」
 振り向いた子どものような表情のサンジを見たゼフの唇が震え、やがて大きな笑い声が店内を揺らした。
「お前、一言だけぽつっとこの男の名前を漏らしただろう、チビナス。どこでどう繋がったかは知らねぇが、何でも甘く見ちゃいけねぇ、そういうことだ」
 ゆったりとした足取りで進みはじめたミホークは3人の横を過ぎてゼフの横に立った。
「えにしは人の思惑を超えて伸縮するものだ。・・・たまには昔のようにぬしと音を奏でるのもよかろう」
 ゾロはしばらく黙っていたが、やがて笑った。
「何か、らしくねぇな。やっぱり年とったか」
 気を取り直したらしいサンジの青い瞳が光った。
「やめとけ、ゾロ。そいつはこのジジイの前では禁句だ」
 この二組の男たちにはそれぞれにどこか似た感じがある。アキはそっと一歩離れると椅子に腰掛けた。それに気がついて振り向くゾロとサンジに微笑みかけると全然違う2種類の照れ隠しが見えた。
「・・・今日の主役はアキちゃんだし、そのアキちゃんが望むなら」
「・・・ああ」
 必要以上に余裕のある足取りで年長者たちに加わる2人の姿をアキは眩しそうに見つめた。ゼフの視線を受けたミホークが出だしの音節を奏でた一曲が四つの個性を合わせて広がりはじめる。その音に身をまかせながらアキは思いを馳せた。
 あの日、部屋の鍵を失くしたことからはじまった2人の隣人との時間。ゆっくり重なる毎に少しずつ近くなっていったもの。今ここにこうしていられることが例えようもない程嬉しい。この先も変化は続くだろうけれど、失くすのが恐くなったり貪欲になることもあるかもしれないけれど、それでもきっとゾロとサンジ・・・2人が願うことを大切にしたいという気持ちは変わらないでいられるだろう。
 アキの視線の先でゾロはアキに真っ直ぐ視線を返し、サンジは日の光を思わせる笑顔になった。
(うん、大丈夫)
 曲が終わったらミホークにサンプル採取を頼んでみようか。そんなことを思ったアキの顔にはいたずらな微笑が浮かんだ。

2005.9.27