手を繋いで - 1/12

サンジは自分の手を眺めていた。上向けた手の平、5本の指、どうやら器用らしい指先。この手は料理人の命であり、これからまだ未知の食材と料理に出会うためにここにある。
そのためだけに。
ふぅっとひとつ、息を吐いた。
「サンジ君?」
サンジの隣りでアイスティーを作っていたアキは空になったティーポットを置いた。深くて濃い色になった熱い紅茶を大量の氷を満たしたピッチャーに一気に注ぐ作業には慎重さと大胆さがいる。湯気を上げていた紅茶とピシピシ音をさせていた氷が無事に融合すると透明感のある爽やかな色の冷たい紅茶ができる。何度やってもアキはこの作業が好きだった。
「ああ・・・ごめん。綺麗な色にできたね。香りも最高。アキちゃんさ、バラティエでバイトしなよ。俺と一緒に仕事しよ。紅茶専門。最近コーヒーじゃなくて紅茶っていうお客も結構いるんだよね~。喜ばれるよ」
皿に焼き菓子を並べはじめたサンジは一枚一枚、そっと菓子をつまむ自分の指先を意識していた。今日は何か、どこかおかしい、と自分のことを思った。ふと見れば、アキがやわらかで心配そうな視線を向けていた。
「どうしたの?」
サンジが問うとアキは首を横に振った。
「そんな優しい顔してるとそこのマリモが目を覚ました時にとんでもないことになるよ~」
ソファで眠り込んでいるゾロの黒い姿とその上で身体を丸めている猫。
おどけた調子で言葉を続けたサンジをアキはただ黙って見つめた。その視線を受け止めたサンジはやがて淡く微笑した。
「なんかさ、今日はやけに自分の手が気になるんだよね。コックの手としてはなかなか捨てたモンじゃないと思うんだけどさ、人間の・・・男の手としてはどうなのかな、とか・・・さ」
手を繋いだあたたかさ、頬に触れた感触、しっとりとした髪の間を指で梳いた滑らかさ、背中にあてて自分のところへと抱き寄せた時に感じた熱。一つ一つの記憶がまだ新しい。
「俺が受け取っていたものをマリエさんも受け取ってくれていたのかな・・・とか気になってさ」
サンジの言葉が胸に強く響いたアキの表情に浮かんだものはサンジを驚かせた。そこにあったのは紛れもなく痛みの気配だった。
「・・・アキ・・・ちゃん?」
アキは頭を小さく動かして微笑した。
「ごめんなさい、変な顔してた?・・・自分が幸せだと思っている時って実は相手のことが一番見えていないときなのかもしれないなぁって思い出して。心が舞い上がっているその時に、実はそんな幸福を感じる資格はなかった・・・なんてね」
アキの微笑に見える影にサンジは眉を顰めた。
「何、このマリモ野郎、そんなにアキちゃんを不安にさせてるの?それなら俺が蹴りを2、3発・・・」
「そうじゃないの、全然違うの」
アキは慌てて首と手を横に振った。
「もうとっくに忘れてるはずの昔のこと。もうずっと・・・昔の」
それは多分、まだアキが自分の声を失う前の。
サンジはそっと手を伸ばしてアキの髪を一度だけ撫ぜた。
「それでも忘れてないんだ、今も」
アキは困ったように微笑した。
「それさ・・・ゾロには言ったの?」
「ううん。・・・一緒にいる時は忘れてるから・・・」
サンジは思わず笑ってしまった。
「すごいな、それ。アキちゃん、どんだけこいつに惚れてんの・・・って、なんで俺が喜んでんだかね。悔しいからこいつには絶対に今の、教えてやんねェ」
アキの頬に濃い赤が差した。
サンジは平和で無頓着そのもののゾロの寝顔を見た。
どう見てもゾロのほうが絶対に危険な空気を持った男だし、過去に感じる怪しさと物騒さも相当なものだ。最初に会ったときには余裕の表情で向き合うために、実は背中に相当力が入っていた。それなのに。
気がついてみたらサンジはゾロの前で楽に呼吸し素直に感情を表すことができるようになっていた。素直すぎるほどに。これまでの人生、誰の前でもこんな風に自分をさらけ出したことはない。そして、それはもしかしたらアキも同じなのかもしれない。
大体、リラックスしきった猫を腹の上にのせて眠っている図、というのも考えてみれば最初の頃のゾロの印象からかなりかけ離れたものだ。今は実はゾロの本質はこっちの方なのではないかと思っているが。素朴で単純で懐が深い男。強面と不器用な愛想のなさのおかげで、他人には無骨な強さばかりが目立つのだろう。
そう思う自分は『他人』ではないということか。もっとも自分でそう思っているだけで当の本人はどう感じているかわからないが。
「俺さ、自分の手にはずっと自信があったんだけどな。蹴りがいくら強くなっても足は俺にとっては手を守る道具でさ。だから・・・」
サンジは再び静かに手を伸ばした。
アキはサンジの手が近づくのを見つめた。大きくて形の良い手。長い指の繊細さ。今は少しだけ孤独をその手の平に隠している。サンジの手が目の前で止まると、アキは自分の手をその上に重ねた。互いの温度がゆっくりと流れ込んでくる。サンジは手の平を返して アキの手を包み込んだ。
「ゾロの手の方が熱いだろ。こいつ、見るからにあったかそうだもんな~、動物みてェに。筋肉ばっかりだし」
心臓の高鳴りよりも安堵を感じていた。互いに相手がそこにいることを幸福に思った。それは性別を超えた信頼と好意への感謝かもしれなかった。ただ、互いが大切だった。互いの笑顔を見たいと願っていた。
ほとんど同時に微笑した。それから、一緒に笑った。
それだけで満たされていた。