夕陽と下り坂

 しかた、ねェよな。
 坂の下でサンジは意志の力で動かしてきた足を止めた。
 誰のせいとか、何が悪かったとか。そんなものがあるわけでもない。
 崇拝する気持ちは少しも変わらない。
 大切にしたい気持ちも変わらない。
 互いに見せたい自分を見せ合い、互いの回りに張り巡らした柵の高さを測りあったり。そういうのは今でも変わらず刺激的だ。
 ただ。
 肩を落としたサンジは煙草を求めてポケットを探った。見つからない。こんな時に限って。
 思わず祈りに近い気持ちになった。今ここで煙草を咥えて火をつけて一筋の煙を吐くことが出来たら・・・・すべてがうまくいったり時間が逆行して戻ってくれたりするはずはないのだが。小さく振り仰いだ空はいつの間にか赤みを帯びていた。
「・・・サンジ君?」
 反射的に振り向いたサンジの顔にあったものを、この隣人は全部見て取ってしまっただろうか。サンジは淡く微笑してアキの顔を見下ろした。サンジよりも1歩分だけ坂の下にいるために、普段よりも身長差ができていた。
「今、帰り?おかえり~」
 通りの向こうからずっと見えていたサンジの細長いシルエット。肩を落として背を丸くして・・・アキはそんなサンジの後姿をこれまで見たことがなかった。何となく声を掛けそびれてすぐ後ろまで来てしまったが、その間サンジはアキの気配に気がついた様子はなかった。これも普段にはないことだ。そして振り向いたサンジの顔には。そこにあったものに胸を突かれたアキはただサンジの微笑を見上げた。
 サンジはふっと視線を落とした。
「勝てないんだよね、アキちゃんのその顔に。でもさ、見ないでくれ、とかも言いたくならねェの。おっかしいよね~」
 サンジの顔の造作一つ一つを縁取る線が細く見えた。瞳の色が澄んでいた。唇に微小な震えがあった。
「声かけてきたのがゾロだったら、クソマリモ!とか何とか先手を打てたのに」
 そして結局ゾロにも真っ直ぐな視線を向けられて心の中の穴を見透かされてしまったのだろうが。その時、サンジの指はようやく探していたものに触れた。
「おせェよ・・・」
 唇に挟まれた煙草が揺れた。
 坂の上から影が伸びた。
「んにゃぁ~」
 おかえり、とでも言いたげな猫の声が響くと同時に鉄砲玉の勢いで疾走して来た小さな身体。フレークは真っ直ぐにサンジの胸に飛び込んだ。
「・・・危ねェよ。火ついてたらどうすんだよ」
 抱きとめた猫に話しかけながらサンジはしばらく俯いていた。
 坂の上から一歩ずつ下りて来た黒い姿はやがてサンジの前で足を止めた。
 なんでアキちゃんまで身体をかたくしてんだろうな。こいつの恋人なのにな。
 小さく吹きだして静寂を破ったサンジはゾロの顔を見た。
「上に立つなよ。お前の方が背が高くなってんだろ」
 ゾロはサンジとアキの顔を順番に見てくるりと身体を今来た方に向けた。
「帰るぞ」
「何だよ、どこのおとっつぁんだよ、お前は。こういう神出鬼没、やめとけよ」
「・・・からむんなら部屋に戻ってからにしろ。酒は買ってあるからつまみ、作れよ」
「あのなぁ・・・・俺は生まれて初めてレディを振っちまったの。大好きな店の崇拝できるオーナーと客のコック、そういうのに戻ったの。あんな大切な人を振るなんて慣れてねェし、もう2度とはあるもんじゃねェから記念に一人で飲んでフテ寝しちまうことになってるんだよ。そういうのがあのレディに対する礼儀だろ?」
「抱いてるそいつもまだメシ食ってねぇからな」
「お前・・・俺の話、聞いてねェだろ」
「うにゃぁん?」
 サンジと声を合わせるようにして期待に満ちた瞳で見上げるフレークに、サンジはくしゃくしゃになった顔を向けた。
「・・・わかってる。食いたいヤツに食わせるのがコックだ。心配すんな。アキちゃんもご飯食べてないよね?」
 頷くことしかできないアキにゾロは立ち止まって手を差し出した。
 気がつけばもうそこは坂の半分を越えていた。沈んでいく日輪の曲線が色濃く浮かんでいるのが見えはじめていた。

 俺の失恋・・・ある意味そうだと思う・・・は多分こいつらのせいなんだけどな

 サンジは小さく息を吐いた。
 男としてマリエを抱きたいと思った。恋人として様々な時間を楽しんで楽しませたいと願った。マリエをさらに美しくすることに手を貸せたらと祈った。一緒に幸せでいたかった。そうして過ごしてきた日々の中で、ふと気がつけば部屋に戻るとなぜかホッとするようになっていた。ただそれだけのことだったのだが、一旦気がついてしまうとそれから妙に気になった。気になりだしてから、実は結論は早かったのだと思う。
「4人と1匹っつぅのはなぜだかダメな気がしたんだよね・・・」
 サンジの呟きにアキは驚いて目を見開いた。
 ゾロは口角を上げた。
「欲張ったんだろ」
 サンジはハッとしてゾロを見た。
「そっか・・・・そんだけか」
 満腹でもう食べられないと気がついてもなお手の中に大切に握っていたもの。サンジにできることはそれが傷んでしまう前に開放することだけだったのだと・・・大切だからこそ。
「つまみ、辛いモンも作れよ」
 アキが辛いものを苦手なことを知っているサンジは黙っていると絶対に香辛料を薄めに使う。
「わかったよ。でも、まずはお前の夕食だよな~、フレーク」
「ん~にゃ!」
 もしかしたら今夜はゾロに散々からんでしまうかもしれない。
 もしかしたらアキに涙を見せてしまうかもしれない。
 それでもいい。大丈夫。そう思えることがサンジの気持ちを軽くしていた。

 このままどこまで行けるのか

 サンジは小さく笑った。
 どこまでも行ける気もするし、先を考えるのが恐い気もした。

2006.7.27