波折

「・・・・これ、落ちてたぞ」
「え・・・?って、うわ!ちょっと待て!見たのか、てめェ?ちょっと待て~!」
 ぽつりとした呟きとそれに続く絶叫。それは眠りから覚めたばかりの隣人の頭から一気に眠気を吹き飛ばすものだった。

    もしもの話
                              サンジ

 もしもぼくが百万円持ってたら、自転車をかいぞうして空を飛びたいです。ふたりのりの自転車を飛行機にしてじじいといっしょに海の上を飛びます。世界じゅうの魚があつまる海まで飛んで行ってたくさんしょくざいをつりあげます。
 ほう丁をいっぱいとっくんしてちゃんとつった魚をさばけるように、毎日れんしゅうしています。せっかくうまくいったかと思うのにけりがくるとけっこうはらがたちます。なつやすみがおわるまでにぜったいにうまくなってみせます。

 焼けて変色した一枚の原稿用紙。何度も折りたたんだ跡が残っているそれをアキは抱きしめたいと思った。幼いサンジが一生懸命に書き綴った夢。この短い作文は多分夏休みの宿題だったのだろう。
「ったくあのジジイは余計なことを・・・」
 顔を赤くしたサンジはぶつぶついいながら冷凍しておいたフルーツを皿に盛っていた。
 バラティエから帰ろうとした時、ゼフがサンジの顔の前に突き出した一枚の紙。受け取って中をみた瞬間、気持ちがクルクル回転した。どこで見つけたのだろう。懐かしさを通り越して羞恥とともにどこか甘い切なさが胸の中に湧いた。
 ゼフは何も言わなかった。
 サンジも何も訊かなかった。
 どこからかこの紙を見つけて捨てることができなかったのだろう・・・あの口の悪い暴力コックは。それを思うと何となくサンジもそれをシャツの胸ポケットに入れたまま部屋に帰ってきてしまった。部屋に帰るとまだどこか幼さが残る一匹の猫に出迎えられた。今日はたまたまゾロもアキも仕事で部屋を空けている。フレークはサンジのところで食事をもらって留守番していたのだ。
 そのフレークをゾロが迎えに来て。
 椅子の背にかけておいたシャツから偶然あの原稿用紙が落ちて。
 サンジの絶叫を訊いてうたた寝をしていたアキが慌てて顔を出した。
「バラティエのサンジ君の部屋には飛行機があったね」
 アキは思い出した。
「俺さ、ずっと空飛ぶコックさんになりたかったの。気が向くままに飛んでさ、世界中の食材を集める・・・なんてさ。世界のどこかにある幻の海を見つけて・・・って。・・・・あのさ、海、見に行かない?」
 突然のサンジの言葉にゾロは片方の眉を上げた。
 時々、わけもなく何でもできそうな気分になることがある。それは子どもの頃、夏休みの初日に感じた自分の前に広がる可能性に眩暈を感じた嬉しさとどこか似ている。ゾロのこれまでの経験から言うと、どうもサンジとアキと一緒にいるときにこの感覚を覚えやすい気がする。浮かれ気分の一種だとつとめて冷静に判断しているつもりだが、結局口元が綻んでしまう。
 見ればアキはサンジとそっくりな無邪気さで素直に喜んで笑っている。
 2対1じゃかなわない・・・それが自分への理由付けであることを誰よりもゾロ自身が自覚していた。

 時間は真夜中だ。外はとっくに静かな空気と昼間には耳に入らない微小な物音に満ちていた。三人はフレークを連れてサンジの車に乗った。助手席に座ったアキの膝の上で首を伸ばして周囲を眺める猫の様子はさらに冒険気分を高めてくれる。
「ちょっと遠出してさ、海岸で朝を迎えるっていうのがいいな。途中で運転交代しろよ、クソマリモ。眠くなったらとっとと寝ておけ」
「ん・・・ああ」
 ゾロは後部座席で身体を伸ばした。
 すれ違う車のライト、通り過ぎる街灯の光。アキは闇の中で時々浮かび上がる色に心を奪われていた。この闇の中では信号機さえ生き生きとした命を持っているようだ。
「・・・もしもの話、で思い出したけど・・・・ほら、よくさ、『もしも〇〇だったら』っていうやつ、あるだろ?ちょっとおしゃべりを弾ませたい時とか使うネタ」
「少年サンジ君は百万円、だったね」
「そうそう!ガキの頃ってさ、百万円あったらもう一生大金持ち!みたいな気がしなかった?考えただけでそわそわどきどきしちゃってさ」
「うん、わかる。それが今ならあの本とあの本と・・・・って割と簡単に使い切る方法を見つけちゃうよね」
「使い切るし、おまけに我慢までするんだよ、ちゃんと。あの食材は高すぎるからこっちとこっちにしておこう、とか。おっかしいよな~。じゃあさ、百万円の他は何かある?」
「一番簡単なのは性別を入れ替えるものかな?ふふ。わたしの場合は、もしも男だったら、みたいな」
「・・・やめて。アキちゃんは絶対細くて華奢なレディのままがいい。・・・・・男にメタしたところもちょっと見てみたいけどね」
 サンジは笑った。
「でもさ、そうやっていいだけ盛り上がったところで絶対誰かが言うんだ。『じゃあさ、もしも明日世界が終わるとしたら、最後の日である今日、誰と何をする?』っていうやつ。そしたら途端にみんな真面目に真剣に考え出すの」
「・・・世界の終わり・・・」
 後ろでゾロが身体を起こした気配がした。
「答え出すの、難しいよな」
「ずっと前にお話を読んだことがある・・・・世界の終わりが来ると予言された日の前日、みんな着飾って連れ立って大きなホテルやお店でパーティをするの。好きなものを好きなだけ食べて飲んでおしゃべりをして。そのパーティへ一緒に行くために思い切って片思いの相手に話しかけて誘ってみたりしてね」
「一緒に行く人、かァ。ポイントはそこになっちゃうよね、やっぱり。何をしたいかというよりも誰と一緒にいたいか。アキちゃんの答えは敢えて訊かないけどさ。うぬぼれそうな野郎が一人いるから」
「・・・・誰のことだ」
 思わず反応したゾロの低い声にアキとサンジは顔を見合わせて笑った。
「サンジ君は・・・・マリエさん?」
「はは、そうじゃないと嘘だよね。そん時もまだ片思いだったらちょっと切ないな~」
 そうなのか。口を閉じたままのアキを見てサンジは片手で煙草を引っ張り出した。
「大丈夫。時間がいるってわかってるし。それに、一緒にレシピ考えたりさ、すごく楽しいから」
 サンジが咥えた煙草の先が赤く光った。
 三人はそのまま車を走らせた。
 ようやく海に着いた時、まだあたりは薄闇に包まれていた。それぞれに自分のシートで身体を丸めて眠った。その様子はゾロの腹の上で眠る猫の姿にそっくりだった。

「起きろ、アホコック」
 サンジを起こすゾロの声と一緒に頬に触れて離れて行ったぬくもりを感じた。アキは目を開け、おそるおそるこわばった身体を動かした。
「うわ、海だな~」
 両腕と上半身をいっぱいに伸ばしたサンジは声を上げてドアを開けた。潮の香りと波の音が冷えた空気とともに流れ込んだ。
 早く早くと誘うサンジの笑顔にゾロとアキも車をおりた。一気に砂混じりの地面に跳んだフレークが後悔に尾を縮めた様子がおかしかった。それでもサンジの足跡を辿ってジャンプして行く小さな姿を並んで追いかけた。
「冷てェ~!アキちゃん、裸足!裸足になった方がいいよ。冷たいけどかなり気持ちいいから」
 言われるままに履いてきたサンダルを脱いだ。湿り気を帯びた砂が指の間に流れ込む。波を戯れるサンジと合流するとサンジは浮かれてクルリと身体を回転させた。
「おまえはここで大人しくしてろ」
 果敢に突っ込んでいったものの波に逆襲されて必死で駆け戻ったフレークをゾロは片手で摘み上げた。
 寄せる波、戻る波。一日の最初の陽光を受けながら命を抱く大きなもの。
 三人は並んで立ち、しばし波の音と行方を追った。
「もしも・・・」
 サンジが呟いた。
「もしもさ、明日が世界の終わりだったら・・・・俺、こうしてこのままずっと海を見てるのもいいなァ。こうやって・・・ただ、さ」
 一緒に。
 三人と一匹で。
 時とともに変化しながらいつまでも続く悠久の営みを。
 ゾロの顔を通り過ぎた微笑は淡く空気に溶けたように見えた。アキにはそれとサンジの笑顔がひどく眩しかった。
 もう少し、今はこのままで。
 三人は波の彼方に視線を向け同じ波の音を聞き続けた。

2006.7.13