青い薔薇 - 8/11

 ゾロの名前を言った後、男はしばらく黙ったままアキの足元に座っていた。それから大きく息を吐いた。
「姉はとても綺麗な人でしたが、ゾロに会ってからはもっと綺麗になっていくように見えました。そばにいる僕にはそれがよくわかったし、両親も時々姉に見とれていた気がします。僕はとても誇らしかったけど、ただ、そんな姉の様子をまったく気がついていない奴が1人だけいて苛々していました」
それが・・・。アキの視線を受けて男は頷き、唇を歪めた。
「ゾロですよ。毎日道場に通うことしか考えていなかったゾロ。多分姉の顔は覚えていたでしょうけれど・・・僕と一緒に道場に行ったりしてましたから・・・でも名前は覚えてなかったんじゃないかな。ゾロの回りにはいつも人がたくさん集まってきて、姉の回りもそうで・・・。そういう人間って意外と鈍いところがあるから」
ゾロの回りに集まる人の中にこの男はいたのだろう。そして心の中で姉をとても慕っていたのだろう。それは少年にとってどちらも自然で大切な想いだったはずだ。
「僕はいつの間にかゾロの親友だって言われてたけど、ゾロはそれも知らなかったかもしれない。みんながゾロみたいになりたいと思っていた気持ちをゾロだけは持たないですんでいたし、友達の中で誰が一番なんて考える男じゃなかった。ゾロはいつだってゾロだったから」
ああ、とアキは自然に頷いていた。ゾロはいつだってゾロ。それはこれまでにアキが時々感じてきた気持ちをそのまま言い表しているように思えた。ゾロは自分以外の誰かになりたいとは思ったりしないだろう。自分でありながら強くなることだけを願っているように見える。恐らくその在り方が人の心を惹きつけたり逆に怖がられたりする原因なのだ。
男はアキを見て微笑んだ。
「あなたはゾロや姉よりずっと僕の気持ちをわかる人のようですね。あの頃、僕は何だかいつも苦しかったんです。行くのをやめようと思ってもいつのまにか道場に行ってたし、姉が望んでいるのを知ってたのにゾロを家に連れて帰ることもしなくなっていた。もしもゾロが家に来たいと言ったら、姉の事を尋ねてきたら、そしたら・・・と思ってましたが・・・」
ゾロは変わらずいつものゾロのままだったのだろう。
ゾロの親友でいることを喜んでいたはずの少年はいつのまにか自分がゾロになりたいと願うようになり、ずっと美しい姉のそばにいたいと願ったのだろうか。ゾロと姉、そのどちらもを大切に思っていたはずの少年は想いに心を少しずつ引き裂かれて行ったのかもしれない。
子どもの頃のそういう想いを大抵の人は時間が経てば薄れて自然と消えて懐かしい思い出になるもののように言う。確かにそうなる想いは多いだろう。けれど子どもでも大人でも想いの深さに甲乙はなく、もしかしたらまだ経験からのみ得る事ができる心の鎧を持っていない子どもの方が深い想いを断ち切るのが難しい場合があるのかもしれない。
例え不器用と言われてもだからといって心は変えられない。あの時のアキのように。
男は自分の右手で額の傷に触れた。
「この傷はゾロの『親友』だったからつけられたものです。おかしなもので、僕は最後の最後、ギリギリの瞬間までゾロが守ってくれると信じてました。傷だらけになって血を流しているゾロがとても強そうで、ただ見てました。でも僕の前に身体を入れてきたゾロの動きはちょっと鈍くなっていて間に合わなかった。額が熱くなって目の前が真っ白になったあの時をまだ時々夢に見ますよ。目を開けたらゾロに背負われてました。服が血だらけだったな・・・ゾロの。背中の血は僕が流したものでじわじわと広がってました。次の記憶は病院で、その次の記憶は別の町の病院で・・・いつの間にか僕の回りからゾロはいなくなっていました。本当は僕の身体の方が彼と彼のいる街から離れちゃったわけですが、あの時はそれがよくわからなかった。だから見捨てられたんだと思いました」
ゾロは見捨てたりしなかっただろう。アキは思った。
男はベッドの上で少しアキに近づいた。
「あなたも姉と同じ事を言いたいんですね。いいんですよ、その通りでしょうから。姉は傷ついていました。両親がひどくゾロの事をなじり、ゾロはいろいろ不名誉な汚名を着せられて例え僕を追いかけてきたくてもできない状況だったみたいです。道は別れていた。いや、最初から別れているのを僕だけが気がついていなかったのかもしれない。姉はゾロの名前を口にしなくなりました。僕の事を一言も責めませんでした。いつもと同じように綺麗に笑いかけてくれてそばにいてくれて・・・でも、きっと姉の心の中にはずっとゾロがいたんです。両親は事故であっけなく他界してしまい、それからずっと姉と2人で生きてきましたが・・・でもそこには見えないゾロがいた。姉の気持ちにひとつも気がついていなかったゾロが」
男が姉の中に見ていた気持ちはどこまでが真実なのだろう。アキには互いを大切に思う故にすれ違う姉と弟の姿が見える気がした。思いやりから互いに口に出さなくなった名前をどちらかが思い切って声に出していたら、何かが終わって先に進むこともできたのかもしれない。もしもまだそこにゾロがいても、大切に会話を重ねることもできただろうに。
アキはその姉と弟の不器用さを切ないと思った。そう思ったとき、男に対して持っていた恐怖はほとんどなくなっていた。
男が取戻したがっている美しい姉。その姉は。
アキはペンを動かした。
『あなたが会いたいのはゾロに会う前のお姉様ですか』
男は黙ってそれを読み、目を閉じた。そして頷いた。
「それから姉の時が止まってしまえば・・・そうすれば苦しまないですむだろうと・・・」
a blue rose
奇跡を願う男がここにいる。失ってしまった大切な人を取り戻すこと、そしてその人の上で流れる時を止めること。
限りなく純粋にも見えるその願いをアキは美しくて恐ろしいと思った。
アキが再びペンを動かすと、気配を感じた男は目を開けてアキの手元を見た。
『ゾロはとても大切な人です。ゾロがずっと気がつかなくても多分ずっと大切です。あなたもゾロとお姉様のことをそう思っているのではないですか。罪悪感はもういらないと思います。ゾロはきっとあなたのことを責めたことはないでしょう。そんなことを考えもしていないはず。それがゾロです。そうでしょう?』
男の目は紙に書かれた文字の上で止まっていた。
どれほどに苦しんできたのだろうとアキは思った。誇りにしたい友人がいて憧れの姉と揃った家族。楽しくて仕方がない日々の絶頂の時に訪れはじめた変化。じっくりとそのまま時が流れて変化し続けて行くことができたなら、男も姉もゾロも自然と決まっていく自分の場所におさまっていっただろう・・・例え離れることになってもその痛みは思い出に変わっていっただろう。けれど、その変化は大きく動いたと思った途端に凍結してしまった。恐らくゾロだけに汚名を着せたまま。そうすることで大人は自分の子どもを守り、子どもも自分の心を守ったのだ。でも真面目な子どもの心に罪悪感が残らないはずはなく、その子どもの時はそこで止まったままになってしまったのだ。そしてその子どもは大人の姿で自分の上で止まっている時に気がつかずに奇跡を願っている。
「罪悪感・・・」
男は呟いた。それから否定するように首を軽く左右に振った。次に、もっと強く。
『難しいように思えても、人は忘れる事ができます。だから、前に進めます』
アキはゆっくり1文字ずつ力を込めて書いた。
男の目もゆっくりと追った。
男が手を伸ばしてアキの手を握りこんだとき、アキは震えを抑えながら逃げなかった。