木漏れ日の午後

 弓を置いた手を静かに彼を見つめる姿に近づけた。
 『恋人』というにはまだ不慣れな間柄。
 友人というには割り切れない甘美が存在する。
 偶然に縁を深めた隣人どうし、という二人のはじまりが今なお最も違和感がない。
 瞳の中に恐怖はないか。
 確かめながらそっと色白の頬を両手で包めば上気した肌に愛おしさを感じる。互いのぎこちなさに心の中で苦笑しながら額に口付ける。漏れる小さな吐息を聞きながら閉じられた瞼に唇を移す。彼自身も目をつぶったまま親指の先で柔らかな唇をそっとさぐりあてれば、そうして触れている相手の細い身体に走った緊張の気配が伝わってきて・・・・
「・・・ンニャア」
 いかにも無邪気に響く一声とともに膝に飛び乗った小さな感触を。
 目を開けたゾロは深く息を吐くと足の上の子猫を見下ろした。
「どうしたの?フレーク」
 見事なほど顔を赤らめているアキが子猫に手を差し出すとその小型の困り者は首を傾けてその手に頭をこすりつけた。その仕草を喜んで子猫の方にぐっと身体をかがめて柔らかく囁きかけるアキの声と姿を・・・そのまま眺めていたいと思ってしまうのはどうもおよそゾロらしくない。彼は過去に縁があった何人かの女とはこんな風にのんびりした時間を過ごした記憶はなかった。そういえばヴァイオリンを聞かせたのもアキが初めてだ。
 だからどうというわけではない。なのに心にしっかり刻み込まれる。ゾロの内側にいつの間にか存在していたアキだから。何もかもが仕方がないのだとゾロは苦笑した。
「ちょっと外を歩いてみるか」
 言いながらさり気なく手を差し出すことがこれほど意味のあることに思えるとは。苦笑を深めたゾロはアキの手をとりゆっくりと立ち上がった。

 数日続いた雨がようやく上がったその日の午後。空気はしっとりとした湿度を含み散歩道の地面の匂いがあたたかに立ち上る。
 部屋を出てからずっと静かに握り続けているアキの手。時折眩しそうな表情でゾロを見上げるアキのはにかんだ微笑が彼にはさらに眩しく、少しだけ手に力をいれた。
 小道に沿って気まぐれに空に伸びている木々の新緑に包まれた枝の間から差し込む陽光。ただ歩くだけで心が満ちる。
「アキ」
 言葉が要らない代わりに名前を呼んだ。そっと引き寄せると細い身体のぬくもりが近づき、ゾロの体温もわずかに上がる。
 唇に触れたい・・・彼の唇で。想いがひとつの点に集中する。アキにこの想いは伝わっているだろうか。伝わっているなら、アキはそれを望むだろうか、それとも不安に捕まってしまうのだろうか。
 ゾロはアキの手を持ち上げて白い甲に唇を触れた。
「あ、お~い、アキちゃん!クソ剣士!お土産・・・・いや、その・・・・うわ、ごめん!」
 よりにもよって今日は早番だったのか。
 ゾロは思わず口の中で短く唸り距離を置いて立っている金色の頭を睨んだ。間が悪いにもほどがある。よく状況を把握してから動け・・・と言いかけた言葉を飲み込んだゾロの眉間には深い皺が寄っていた。サンジは本来はこういうことに関しては恐らくゾロよりも遥かに察しがいい。人一倍気もつかう。それなのにことがゾロとアキのことになるとなぜかいつも間が悪い。思わず嫌がらせかと邪推もしたくなるというものだがそれも違う。ゾロにはわかる。サンジのこれは天然だ。このタイミングの悪さはもしかしたら結局は三人の間に存在する縁の強さを示唆しているのかもしれない。
 サンジは見るからに恐縮しながらトボトボと二人の方に歩いてきた。
「おかえりなさい、サンジ君」
「ただいま、アキちゃん。・・・あのさ・・・ごめんな?俺、気がついたときにはもう叫んじまってて・・・」
「なにが『ごめん』だ、アホコック」
 微笑みと照れ笑い、そして仏頂面。それでも最後にはゾロも口角を上げずにはいられなかった。
「土産ってのはよほどのものなんだろうな」
「おおよ!いや、アキちゃん、ほんとコレ、楽しみにしてて。うちの店の新作メニュー、メインとデザート、ちゃんと両方持ってきたから。すぐにあっためるね。ついでにワインも持ってきてやったんだぞ、クソマリモ。とにかく先にゾロの部屋に行ってて。俺の部屋でもいいんだけどできあがるまですっかり全部秘密にしておきたいし」
 嬉しそうに頷いたアキを数歩先に行かせたゾロは足を止めて振り向くと低く呟いた。
「・・・料理してる間、フレークを連れて行け」
 サンジは唇を尖らせた。
「なんでわざわざお前の部屋に寄らなきゃなんねェんだよ。俺はすぐに・・・・って・・・・そういうこと?」
「・・・聞くな」
「なに、お前、フレークにも邪魔されたわけ?」
 吹き出したサンジは苦しげに笑いを堪えながら少しだけゾロに同情を感じた。
「ま、俺は甘やかさない主義だからな。てめェは自分でなんとかしろよ。ちゃんとアキちゃんを大切にしてたらいつかチャンスがあるさ」
 その時サンジはアキが不自然に真っ直ぐ前だけを見て足早になっていることに気がついた。それがアキの口にしない想いをあらわしているように思え、サンジはやわらかなため息をついた。
「ほんと不器用なのな、お前ら。ま、いいさ。フレークのヤツを連れてってやるよ。ただし、10分だけだからな。それ以上は俺が許さん」
 結局慣れた感じの午後になりそうだ。
 ゾロは空を仰いだ。
 木の葉の間で光が揺れていた。穏やかな午後だった。

2006.4.26