迷い人 - 1/6

 部屋の前まで来てドアと向き合ってから。
アキはジャケットのポケットを探った。それからポーチの中を、そしてありえないと思いながらもジーンズの尻ポケットを。
 鍵はどこにもなかった。
 ドアの向こうには合鍵がある。窓辺の小型のチェストにみっしりと集合した小引き出し。あの段の左から3番目。
 錠前破りを習っておけばよかったと思ったが、ここの建物の鍵はレトロな見た目とは正反対の最新技術のものだと思い出す。鍵穴に差し込むまでは懐かしい光景そのものだが、鍵穴の中ですすむ情報解析の過程はおそらくアキの想像を超えた未知の世界だ。0と1のデータの集合と思えば逆に単純な気もするが。
(・・・錠前破りできるなら合鍵は必要ないってことだし・・・・・)
 アキはどうやら仕事明けで疲れている頭を軽く左右に振った。柔らかなショートヘアーが頬に触れると洗いたてのシャンプーの匂いがした。
 連絡が取れたそのこじんまりしたマンションのオーナーは、まだしばらくは時間がとれないと言った。けれど、自分は無理でもできるだけ早くなんとかしようと言った後で電話は切れた。少々ぶっきらぼうなその口調につられて、アキの頭の中には部屋の賃貸契約を結んだ時のオーナーのひげが印象的なしかめ面が浮かんでいた。
 マスターキーを借りに、自分が動けばよかったのかもしれないと思ったが、考えてみればマスターをそうそう簡単に持って行かせるわけはない。ましてあの電話の切り方だ。もう一度かけ直せばかなり迷惑がられる確率が高そうだ。
(まあ、いいか・・・・)
 向こうはアキの携帯電話の番号を知っている。だから、本当はこの界隈であればどこで待っていてもいいはずだ。
 でも、アキはあまり迷わずにドアの前に腰を下ろした。オーナーの渋みのある声にはどこかアキを信じる気分にさせる響きがあった。部屋を決めた理由の一番もそういえばあのオーナーの雰囲気だった。一癖ありそうで頑固そうで信念の存在を感じさせる初老の男。『正体不明』がよく似合う。
 1、2時間できっとなんとかしてくれるだろう。それならこうして座っているのもいい。どんな手段をとってくれるのかわからないが、これならきっと一番迷惑をかけずに済むだろう。
 アキはポーチからシンプルな形の端末を引っ張り出した。そこには自分がメモ代わりに打ち込んだデータもあれば、数日前にダウンロードして楽しみに読み進んでいる濃い目の小説もある。季節的にはまだすこし風が冷たいが、2階のここなら上ほどは強くあたらない。ジャケットがあるから平気だろう。
 本当は自動販売機で飲み物を買って来たいところだったが、バスルームに入る手段がないことを考えてあきらめた。
 アキはドアに背をくっつけて楽なポジションを決めた後、端末の電源を入れて画面に視点を合わせた。
 言葉が紡ぎだす世界の鮮やかさは端末も本も同じ。紙の質感を感じながらページを繰る楽しさがないことだけがアキには少し寂しい。
 物語に夢中になっていたためか、アキは足音も気配も何も感じなかった・・・真っ黒な足と靴がすぐ傍らに現れるまで。驚きに文字通り飛び上がりながら見上げると、どこまでも黒一色の姿があった。長めのジャケット、中のTシャツ、ぴったりと身についたロングパンツ。何から何まで黒い中で裏切っているのは褐色の肌、緑色の髪の毛と瞳・・・無関心にしては厳しい視線を落とす緑色の両眼。
 男はそれから3秒ほどアキを見ていたが、すぐに前を通り過ぎた。
(・・・・・えぇと・・・・・・)
 自分がどうして驚いているのか。
 動けないのはなぜなのか。
 部屋のまん前にいる自分に声をかけないということは、この男はオーナーに言われて来てくれたわけではないだろう・・・という判断をして、アキはやっと一息ついた。
(ものすごい雰囲気だなぁ)
 後姿の肩幅と背中の広さ。歩く動作に無駄がない。鍛えられた体。
 アキの視線が反射的に職業柄の観察眼に切り替わった時、男は再び足を止めた。アキが座り込むドアのその隣りのドアの前で。ポケットから鍵を取り出す動作を目で追いながら思いがけない情報を頭に叩き込む。
 隣人。
 ここに住みはじめて約1ヶ月。アキはマンションの住民とほとんど顔を合わせたことがない。エントランスで時折すれ違う人間も果たしてここの住民かどうかわからないし、ましてどこの部屋の主なのかは全く知らない。自分の部屋の両隣にも誰かが住んでいるのは知っていた。壁の向こうにほんの僅かに存在の気配を感じることがある。
 アキがここを選んだのはマンションの構造がエレベーターを利用するものではなくて一旦エントランスを通った後に外階段を利用するものだったからだ。エレベーターの中の密室の時間はアキが苦手とするもののひとつ。2階を選んだのは状況によっては飛び降りることになっても無傷で着地できる高さであり、1階ほど他人が楽に侵入できないことがポイントだった。
 この隣人がアキの隣の部屋を選んだ理由は何だろう。なんとなく訊いてみたい気がした。そして何よりも職業的探究心というか、収集欲、獲物を見つけたときのハンターの胸に湧き上がるであろうこの感情。普段は物静かでおとなしい人間代表のアキを豹変させるのが今アキを捉えているこの気持ちだった。
「あの・・・・!」
 アキが声をかけると男は訝しげな視線を放ってよこした。
「誰を待ってるのか知らねぇが、俺はそこに住んでる人間を全く知らないぞ」
(うわ・・・・声も雰囲気ある!)
 男の低い声は愛想の一つもないものだったが、アキの耳には多分男の予想とは正反対の効果があった。
 エンジンスタート。
 ギア・チェンジ。
「ボディと声のサンプルを取らせていただけませんか?」
 一瞬表情をなくした男は半分ドアを開けた姿勢のままアキを凝視した。彼を見るアキの顔には無邪気ともいえる嬉しげな表情があった。男が無言で見返していると、アキは段々冷静になってきたらしく色白の頬に血の気がのぼりはじめる。
「あの・・・この部屋に住んでいるのはわたしなんですが・・・鍵を・・・えぇと・・・サンプルというのはちょっと説明に時間がかかって・・・・あの髪の毛も・・・」
 柔らかな髪は風に吹かれるままにボサボサで、白い顔の中で唇と頬にほんのりと色がある。大きく見開いた瞳は戸惑いと動揺をそのまま映し出していて、ドアの前に座り込んだ姿は華奢で性別を伝えない。
 アキを判断しかねる男は口を開こうとした・・・ようにアキには思えた。しかし、その視線がアキを離れて少し上がった。そこには再び無関心な厳しさがあった。
「オーナーに言われて来たんですが、お待たせしました?」
 今日の自分はどうかしている。再び飛び上がりながらアキは反省した。2人もの人間が近づく気配に全く気がつかないとは。さっきはあの隣人らしい黒ずくめの男。今度はこの爽やかな声の主。
 振り向いたアキは再びまったく同じ衝動にとらわれてしまった。
 スラリとした身体にざっくりとした生地の白いシャツと麻混じりの柔らかな色のロングパンツを着こなす姿。風を受けて流れてはもどる金色の髪。海か空に例えたくなるブルーの瞳。白い肌。
(うわ・・・・・)
 我に返りかけていたアキは再び自分の中の人格が入れ替わるのを感じた。アキの葛藤を感じ取ったのか戸惑いがちに首を傾げた男の顔に浮かんだ微笑が、また、アクセルを強く踏み込ませる。
「あの・・・できたら、あなたもサンプル取らせてください!」
「サンプルって・・・試食?」
 どこかからかうように言った後、男は視線を上げた。
 黒 vs 白。
 男2人が視線をぶつけ合う様子をそんな風に感じながら、アキは思わず2人を交互に見つめた。火花が飛び交っているわけではない。けれど場の空気は少々緊張度が高くなっている。
「なんだかよくわからないけど、まあ、いいや。顔を合わせた隣人同士、お茶でも飲みながらアキさんの事情を教えてもらいましょう。俺のほうにもちょっと説明しなきゃいけないことあるし。・・・あんたもな」
 最後の一言を黒ずくめの男に言うと、金髪の男はポケットから鍵を取り出した。
(あ・・・・・?)
 自分の部屋のドアの前からよけようと立ち上がりかけたアキは目を丸くした。
 鍵が差し込まれたのはアキの部屋のもう一つの隣りのドアだった。

 隣人。

 アキはこの日、一度に自分の両隣の部屋の住人を知った。