絵のない絵本

 壁の向こうから低い音が聞こえてきた。やけに響いた。
 ゾロは素振りをやめた。
(何やってんだ、あいつ・・・・・?)
 部屋の間の厚い壁は極めて防音効果が高い。つまりあれだけ音が聞こえたということは隣りの部屋で何か普通ではないことが起こった可能性が高い。
 ソファに放り込んでおいた黒いTシャツを頭からかぶり、足をサンダルに突っ込んで部屋を出た。
「あ、いたのか。何かすげェ音したよな?今」
 ゾロはほとんど同時に部屋から出てきたサンジと通路で顔を会わせた。
(こいつ、寝起きだな)
 上半身は袖なしのシャツ1枚、下はハーフパンツ、髪の毛がちょっとはねているサンジの姿はなかなか珍しいとゾロは思った。二人の部屋に挟まれた部屋の住人は不思議な雰囲気の持ち主だが一応女だ。こんな姿を見せたくないのがいつものサンジだろう。それがわかるくらいの時間をこれまでにゾロはサンジという人間と一緒に過ごしている。ここ半月の間に。
「アキちゃん、どうかしたのか?大丈夫?」
 サンジがベルのボタンを押しながらドアに向かって声をかける。
 返事はない。
 ゾロの眉間の皺が深まった。
 サンジがもう1度ボタンを押すと、今度は中からドアに近づく気配があった。
「・・・音、聞こえた?」
 細くドアを開けてそっと出てきたアキの顔は赤かった。
「なんか大きそうな音だったよ。どうしたの、アキちゃん。出てこないから心配したし」
「何があった」
 声を揃える2人の顔を見てアキはため息をついた。
「あのね・・・」
 アキは決心してドアを大きく開けた。つられて自然に中を覗いたゾロとサンジは思わず顔を見合わせた。
「床がねぇ」
 軽く口を開けたままのサンジと一言呟くゾロ。
 ドアの続きは広いワンルームになっているアキの部屋。それがその広さいっぱい、床一面に本が散乱していた。どうやらいくつも連なっていた本の山が一気に雪崩れ落ちたらしい。足の踏み場がないというのはこういうこと・・・恐らく3人が同じ言葉を思い浮かべていた。
「読みたい本があるの。どこかに絶対あるはずなのに見つからなくて探してるうちにつまずいて一山倒したら・・・」
「ドミノ式にこうなった、と」
 サンジが慌てて唇を噛んだ横でゾロが声を上げて笑った。本の海の中で呆然と立ちつくすアキの姿が想像できて余りある。最初のベルで出てこなかったのは通り道が見つからなかったのだろう。
「ほんと、もう・・・笑うしかないね」
 アキが肩を震わせると柔らかな髪が軽くはずんだ。それからサンジの姿に目をやってまた笑う。
「サンジ君、起きたばかりでしょう。あ・・・・もしかしたら今ので起こしちゃった?」
 サンジの頬に赤みがさした。
「俺、着替えて来る・・・ゾロ、お前、本探しと片付け、先に手伝っとけよ!関係ねェとか言うなよ!」
 ゾロにびしっと言ってから小走りに去っていくサンジの後姿・・・靴だけなぜか仕事用なのが余計に不思議だ・・・を見ながらゾロは呟いた。
「ありゃほとんど照れ隠しの八つ当たりだな」
 アキが頷いた。

 寄せては返す本の波。
 3人は少しずつ本を寄せて床を剥きだしにしていった。鼻歌まじりのサンジ、黙々と積んでいくゾロ、くるくる場所を変えるアキ。3人とも集中している間はかなり手早いのだが、障害になっているのが本そのものだった。
(こいつはどんだけ雑食なんだ)
 散らばっている本のジャンルはゾロがあきれるほど様々でどうしても何冊かごとにちょっと興味を惹かれるタイトルや表紙に出会ってしまう。今、サンジは『失われた料理法』、ゾロは『刀身』、アキは『やわらか猫の四季』を開いて床に座り込んでいた。
「ああ、またやっちまった。アキちゃん、この本も、後で貸してね。・・・で、探してるのは何だっけ?」
 サンジが自分用の低い山に5冊目を加えて立ち上がるとゾロも手に持っている本を閉じた。
「『絵のない絵本』だ。何度も言わせるな」
「なんだよ。俺はアキちゃんに訊いたんだぞ」
 口を尖らせながらもサンジは作業を再開する。ゾロとアキも立ち上がった。
 それから3人で1時間びっしりかかって本を積み上げた。
 床は元通り艶やかな姿を見せたが目的の本は見つからなかった。
「なかったな・・・・」
 サンジは煙草に火をつけた。この頃はアキの部屋にはサンジ用の灰皿が置いてある。
「手伝ってくれてありがとう。こんなに早く片付くとは思わなかった。お茶、淹れるね」
 微笑んではいるものの心なしか肩を落とし気味のアキの姿をゾロは見た。アキの姿を追うサンジの顔も。
 ゾロは頭を掻いた。
「お茶はいい。今から洗車、つきあえ。終わったら本屋に連れてってやる」
 振り向いたアキは目を丸くしていた。思わず目を逸らしたゾロは次にこれまたアキそっくりな目をしたサンジの視線にぶつかる。
「俺は道具を出してくる。準備できたら下りて来い」
 足早に消えたゾロの後姿にサンジは眉を上げた。
「面白ェ。照れてやがる」
 アキは頷いた。

 外は洗車日和の晴天。
 結局サンジも自分の車を洗うことにして、道具を取りに部屋に戻った。車を持っていないアキは正直、洗車という行為がどういうものなのかピンときていなかったがとりあえず汚れていい服装ならよいのだろうと裾を切りっぱなしのジーンズとダブダブのTシャツを着た。気温はこの服装で大丈夫なくらい温かだったが、念のために気に入りのジャケットを持つ。ポケットが滑稽なほどたくさんついているそのジャケットは時々ポケットから思いがけない発見があるのがポイントだ。
 階段を下りて外に出ると黒い車が止まっていた。すぐにゾロのものだとわかった。外観も内装も色を黒で統一し、流れるようなラインがシンプルで綺麗だ。
「乗れ」
 助手席側の窓が開いた。
「全部黒だね」
 アキはゾロの服装とサングラスを見た。金色のピアスがよく映える。実はゾロは服装には無頓着で関心がない。ただ好みの色である黒を選んで身につけているだけだということにアキは気がついていた。それがこれだけきまるのだからゾロは運がいい。
「アキちゃ~~~ん!」
 サンジの声が響いた。もう1台角を回ってきた車・・・真っ赤な小型車の窓からサンジの手がヒラヒラと揺れている。曲線と直線が絶妙に組み合わさったデザインはサンジのこだわりを感じさせた。内装は柔らかなクリーム色。そしてサンジにはブルーのサングラスがぴったり似合っている。
 アキはゾロの車のドアに手を掛けためらった。緊張する一瞬だと思った。ゾロに対してではなく車そのものに対する気持ち。初めて入る部屋の前で感じるものと似ている。他人のテリトリーに踏み込む瞬間。
 ゾロは黙ってアキの様子を見ていたがやがて身体をずらすと手を伸ばしてアキの前のドアを内側から押した。
「ああ・・・ありがとう」
 少し開けてもらっただけで随分気が楽になるものだ。アキはひとつ発見した気分だった。そういえばアキが誰かの車に乗る時といえば仕事がらみで迎えに来てくれるエースぐらいしか相手がいないが、エースはいつも必ず車を降りてアキにドアを開けてくれていた。
(おかげでリラックスできてたのかも)
 アキは屈むようにして乗り込んでシートに身を沈めた。ゾロの車は一応形ばかりの後部座席もあるのだが前のシート二つにあらん限りのゆとりを集めたような空間構成になっていて、後ろの座席は極端に狭い。アキが座ると助手席に身体全体をすっぽりと受け止められて足が浮いてしまう感じだった。身体が地面にとても近い気もした。
 音もなく発進させるゾロをアキは観察した。予想よりもゆったりしたハンドル捌きとアクセルワーク。静かで落ち着いた運転だった。なのにいつでもフルスロットルが可能な予感を人に与えてしまうのがゾロらしい。音楽をかけるわけでもなく耳に入るのはエンジンの音ばかり。ゾロはこの音が好きなのかもしれない。アキにも回転数が変化するエンジンの音は面白かった。
「ヴァイオリンの曲を聴いたりする?」
 ゾロは頷いた。
「たまにな。部屋で聴くより音が逃げない」
「大きな音で聴いたら気持ち良さそう。エンジンの音も楽しいけど」
 自分の体勢が寝転がっているのに近い気がして落ち着かなかったアキはようやくレバーを見つけて背もたれの角度を直した。
 苦労しているアキの様子にゾロは唇を歪めた。前に思ったとおりアキと一緒にいても無理矢理喋らされることはない。むしろ自然と自分から口を開くことが多い気がしてゾロは不思議だった。とにかく退屈はしない。
 車が洗車場に入るとアキは窓から熱心に場内を眺めた。何台か先客がいてガンスプレーから噴出す激しい水を操っているものもいれば背中を伸ばしてボディを拭いているものもいる。
 ゾロとアキが車を降りたとき、サンジの車が入ってきて隣りのスペースを埋めた。
「やっぱりお前もここに来て洗ってたんだ。設備いいからな~。会わなかったのが不思議だな」
 サンジは赤いバケツにまとめてある道具を持って降りてきた。
「ちょっと離れてろ」
 そういうとゾロは洗車機に硬貨を何枚か続けて入れた。
 空中、車のすぐ上に小さな虹がいくつもできた。アキは2台の車をかわるがわる眺めながら出番を待った。待っているうちにアキの場所から見える人々の様子に目を惹かれた。いろいろな洗い方があるものだ。何もかも全部外に出して徹底的に掃除することからはじめた男。頻繁にバケツを持って水道までの間を往復する青年。半分不安そうに周りを見回す娘。水を何度も窓ガラスにかけて中に乗っている子供たちを大喜びさせている母親。
 いつの間にか観察に夢中になっているアキを見るサンジの顔には笑みがあった。ゾロは黙って1人で拭き取り作業をはじめている。
(無理に手伝わせる気もないし洗車なんて最初から関係ねェくせに)
 洗車は半分はアキを本屋に連れて行く口実のようなものだ。サンジは思った。いつも怖い顔で近寄りがたい雰囲気を放っているゾロは恐らく、一旦自分の懐に入れた人間に対しては気持ちも態度も全然違う男だ。不器用だし性格的にもそれはなかなか表に出てこない。しかし、サンジにはわかる。サンジは幼い頃からそんなゾロをもっと極端にしたような男を見続けてきたのだ。偶然ゾロの懐に転がり込んだアキとほとんど同時にアキと一緒に踏み込んだサンジ。ゾロはどうやら今のところは2人とも懐から追い出す気はないようだ。
 サンジにしてみると、ゾロとは年が一緒で男同士だからつい負けたくないと思ってしまうしつっかかって行きやすい。それでもサンジは自分がアキは勿論ゾロのことも実は気に入ってることを認めないわけにはいかなかった。腹が立つことも少なくないが。
(案外単純で面白ェし、あいつ)
 ゾロとサンジとアキ。アキが一緒にいることでバランスがとれていることをゾロも気がついているだろうか。サンジとゾロの2人だけだったらせいぜいお互いを意識しあう段階で止まっていただろう。
(不思議なレディだよな)
 人間観察に夢中になっているアキの横顔。見ようによっては少女にも少年にも見えるアキが実はゾロとサンジよりも2歳年下なだけであることを知ってサンジはひどく驚いたものだ。ゾロはそのことを聞いても表情一つ変えなかったが。食えない奴、とサンジはちょっと悔しかった。

 洗車場を出たゾロの車が向かったのは街で最も大きな書店だった。地下に広い駐車場を備え各階にカフェがあって購入した本をすぐにじっくり読むことができる。
 アキは今度はサンジの車に乗っていた。車内に流れるシンプルなピアノの旋律。やわらかく響くメロディは前にどこかで聴いたことがあるものが多い。
 サンジはアキがうつむいているのが気になっていた。
「どうしたの、アキちゃん」
「結局ちっとも手伝わなかったなと思って・・・」
 アキは恥じ入っていた。ゾロとサンジに声を掛けられた時にはもうすっかり車は洗い上がっていた。夢中になりすぎて全く気がついていなかったのが、そしてひとつも役に立てなかったのがいやだった。
「ああ。でもアキちゃんが楽しそうだったから俺は嬉しかったけどね。多分、あいつだってそうさ」
 ゾロなら絶対に言わなそうな言葉をサンジは笑顔で口にする。会った最初はアキはそれをサンジ独特の社交辞令だと思っていた。それと同時に本音を隠す煙幕の役割もありそうだと感じていた。でも今はちょっと違う。確かにそういう時もあるけれどそれより実は本音であることが多いと思う。心の底から女性を賛美し・・・アキはその対象には入っていないが・・・安心できる相手には喜怒哀楽を見せる。見せていいと判断した分だけは。
「ありがとう」
 だからアキも素直になれる。サンジの笑顔を見ると自分も笑顔を返したくなる。

 書店の地下にとめた車から降りて1階に上った3人の先頭に立っていたのはアキだった。フロアの入り口で一瞬足を止めて後に目を輝かせて歩きはじめたその時、すれ違った店員が軽く頭を下げた。
「アートの棚にお好きそうな作品が何冊か入りましたよ」
 ゾロとサンジが斜めに見下ろす視線を送ると店員は口ごもった。反射的に不機嫌そうな顔(実は警戒モード)をしている2人が相手では無理もない。
「ありがとう。でも、今日は1冊どうしても欲しい本があるの」
 アキが微笑むと店員の硬直が解けた。頭を揺らしながら本を抱えて奥に歩き去る。
「知り合い?」
 サンジが眉を上げた。
「何度か一緒に本を探してくれたことがあって」
 アキは頬を染めた。
「常連か」
 ゾロが呟いた。街最大の書店には一体一日に何人の客が訪れるのだろう。その中で顔を覚えられるというのは・・・いや、アキの部屋の本の数を思えば十分あり得ることなのかもしれない。
 アキは迷わず目的の棚に真っ直ぐ進み、ずらりと並ぶ本の背にしばらく視線を走らせた後、1冊に白い指をかけてそっと抜き出した。表紙を確かめて大切そうに胸元に抱える。目を上げるとサンジが微笑み、ゾロが小さく頷いた。
 それから会計のカウンターに行くまでアキはずっと本を抱きしめていた。会計の後は本を入れてもらった袋ごと。そのまま3人は1階のカフェで一休みすることにしたが、アキはアイスティーの氷が溶けるのもかまわずに本を開いて読みふけった。

 帰りの車の中でアキは運転するゾロの横顔を見た。
「今日はありがとう。あのね、この本を読みたくなったのはゾロのヴァイオリンを聴いた日からなの」
 ゾロは無言でアキを見てまたすぐに前を向いた。
「この本に入っている話の中にゾロの曲を連想させるのがあった気がしたんだけど、記憶が曖昧で。だから確かめようと思ったんだけど探しても見つからなくて。ないとなると余計に気になって」
「あれからずっと探してたのか」
 呆れたようなゾロの声の響きにアキは笑った。
「間にひとつ仕事をしたからそっちにも時間をとられちゃったの。ゾロが考えてるほど悲惨じゃない。でも、こういうのって1度気になるとなかなか治まらないね」
 必死に探していたアキの顔を思い出したゾロの唇に笑みが浮かんだ。自分のヴァイオリンから連想がつながったというのはどんな話なのだろう。気分に任せて弾いた曲は2度と同じには弾けないことが多い。その話を読んだらあの日の気分を思い出すのだろうか。
 それからしばらくアキもゾロも口を開かなかった。もしかしたらそれぞれが頭の中のヴァイオリンの音を追っていたのかもしれない。
 ふと、視線を感じたゾロが見るとちょうどアキが開きかけた口をためらいがちに閉じたところだった。
「何だ」
 ゾロは前を向いてから出来るだけ穏やかに訊いた。先日いつもの通りの言い方でこのセリフを口にすると相手がひどく脅えた顔をしたことが頭にあった。
 アキは不思議そうな顔をした後で言いにくそうに複雑な表情を浮かべた。それでもゾロが黙って待っていると呟くように言葉を出した。
「本を読んだら・・・・またゾロのヴァイオリンを聴きたくなった・・・」
 物好きだな、と返そうとしてゾロはやめた。アキの声もチラリと見えた顔も何かをねだる子供のようだと思った。真剣で少しだけ滑稽だ・・・そしてどこか心地良い。自分の気まぐれを誰かが気に入るというのはこそばゆくもある。
「今日は暇だからな」
 ゾロはアキの顔を見ないようにした。
 2人の間の沈黙は言葉以上に雄弁だったかもしれない。
(あいつも仕事に行くまでくっついてくるんだろうな)
 ゾロはバックミラーを見た。
(ゾロにこの本を見せてみようかな)
 アキは袋から静かに本を取り出した。
 やがて道路の車線が増えると2人の車の横を赤い車が一気に抜いて行った。

2005.5